道たかければ、魔さかんなり
- kisuke1965
- 2022年12月3日
- 読了時間: 6分
初代講頭座談会 2001年12月5日
年末を控えまして、お互いが大事な時期なんですね。このことについて天台大師の文(もん)を引かれて大聖人がおっしゃっているんですね。「道たかければ、魔さかんなり」。ようするに目標というものは大きい人ほど魔障が競う。病気にしても生活にしても、こうなりたいと大きな目標をもってやっていこうとする人は戦いをせないかん。拝んでるからなります、じゃない。戦いをしていかないかん。大聖人は大尼御前に「なずきをわり、みをせめて、いのりてみ候わん」とおっしゃっている。「なずきをわり」とは、頭を使えということ。「みをせめて」とは、自分自身の煩悩障との戦いをせよということ。いささかも御本尊を疑う気持ち、いささかも妙法蓮華経を軽んずる気持ちがある限りは功徳はでないと、はっきりおっしゃっている。このことをよくわきまえられて、今年最後の座談会として大事なことをお話ししたい。
道たかければ、魔さかんなり。みなさん方、こういうふうになりたい、ああいうふうになりたいと御信心なさっていらっしゃるわけで。それが小っちゃなことやったら、そんなにうるさいことはない。いや、願いがかないました。いや、こんなになりました。で済む。ところが大きな問題になったらそうはいきません。それなりに煩悩障が働いてきて流転をくりかえす。そして、ああなった、こうなったと、ひとつは喜び、ひとつは憂い。やっていく。ということでしょ。だからこういうことを大聖人が注意なさっている。良いからと言って頼ってみたり、悪いからと言って悩んだり。あるいは人を憎んだり。そういうことをしちゃいかん。願うのは御本尊様しかない。私たちは御本尊をたもっている。妙法蓮華経をたもっている。ゆえに日有上人仰せに曰く。情実の尽きたるところなり、とおっしゃっている。情を入れてやっていくと信心でなくなってしまう。それは情の世界になってしまう。しかし私たちは情の世界に住んでますから。信心をしておるから、情の世界じゃありませんと言ってしまうと、それは冷たい人間になる。そうでなしに自分の生活は生活ですから。ひとたび、この妙法蓮華経を論ずるときには、情の世界から出てしもうて論じていく。これが出世間ですから。そういうことで今日は十分な時間をとってやりたいと思います。
さあ。。(質問は。)お、珍しいな。大丈夫か。いやいやいや。今日は珍しい方がようけ来られておる。一概に松山だけじゃないんだぜ。松山さんが来られるというので座談会をとっちょるだけで。
質問者→私たちの言葉ですよね。日ごろの言葉によって、いろいろあります。言葉によって傷つけたり、自分の取りようもあるし。。いろいろありますよね。。。それで、なんというかな。なんだっけ。
なんなんだ。(笑)。言葉によって、己を傷つけ他を傷つける。よく言ってることですけども。さほどピンとこないような。。しかし、罪障は、どうやって拵(こしら)えていくか。大聖人はどうおっしゃっているか。罪障というのは、その根本は言葉にある。言葉によって罪障を積んでいく。ええね。言葉なんですよ。罪障を積むのは。言葉というのはどうしてそんな大事かといいますとね。命とは一期の果報でしょ。わかる?いま言ってること。イチゴやないで。一期。すなわち、私たちの命というものは、オギャーっと生まれて死ぬるまでの果報の云々を論ずるのが、実は命なんですよ。命そのものに果報があるとかないとか。よくいうでしょ。徳がついてるかついてないか。これそのものが自分のありようを定めてしまうんですよ。決まってるんです。その人がなにを考えて、その人がどういうふうなことで生活しとるのか。不軽菩薩でいうと、不軽の功徳といって。人さんを大事に思える自分になってきたのか。そうすると、人のいってることを聞いていると、何となく骨身にこたえてくる。親身に話をしているように聞こえてくる。それは自分が変わりよる。取りようが違うてきとる。(相手は変わっていない。)その人は奥の深さができてきた。人そのものに。あの人に会(お)うたときに、なんとなく気持ちがええねえという言葉がでるはずだ。その人が変わってきとる。それは何かというたら命なんだ。そういうふうに、その人のありようというものが一期の果報。すなわち死ぬまでに、どういうふうな生活をしていけるか。どういう人物になっていくのか、というのは生命の云々なんだ。それを決定づけながら日常の生活に何がでているかというと言葉なんだ。その人の。さもしい根性を持っておる者は、なんとかかんとか言うて他を恨む。うらやましがるとか。そして自分自体を振り返って(嘆く)。そういう姿を見せる。これはさもしいというか寂しい。ところが豊かな人は他を見ても、どういうふうな状態の人であっても良いところしかよう見ない。自分自体が向上してくれば人の欠点を見るよりも長所を見始める。自分に合わせて見てるから。ところが自分自体ができてない、スランプのとき、あるいは若いときにできなかったときに、人さんを見たとき劣っているように感じがすると。それを何とか取り返したいと思うとき。自分の命に葛藤を生じているよね。そうすると言ってることにおいても挑戦的な、なんとなく肩ひじ張るようなやり方をしだす。そうすると言葉にちゃんとでてる。言葉だけじゃない今度は態度にも表れる。商売をしてるとうんとわかる。だから言葉というのは、自分を卑下するような言葉によって、言わいでもええことをペラーっということによって自分自体の人格的なものを傷つけるとか。あの人の言うことを聞きよったら、なんかおかしいなとか。あるいは、ええ人だと思っていたのに、相手のことも構わんと平気でペラペラしゃべる人だね。とか。物事なんにも考える力のない人だね。思うたとおりのことを言ってしまうね。愚かな人だね。そうなっちゃうのは、全部自分の言葉に始まっている。じゃあ、その言葉は何かというと自分の生命なんだ。だから言葉っていうのは怖いんですよ、というのはこういうことなんだ。大聖人は罪障は言葉から始まるという。罪障を積むのは全部言葉。
さっき、僕が言いましたよね。道たかければ。以下略。
(ちょっとだけ追加)
道たかければ、魔さかんなり。よい正月を迎えよう思たら、これから魔障がどんどん働く。いまのままでええわねえというのであれば、そうでもない。たとえば簡単な話だけども、畳替えをして障子も貼ってと考えた。そうすると、時間はどれくらい、金子はどれくらい。計算すると時間がないかもしれない。どうしたらいい。イライラが始まる。これなんだ。道がたかい。求めてるものが。そうすると流転が始まるんだよ。魔というのは流転なんだ。みんな魔障、魔障というけれど流転なんだよ。どうしよう。どうしたらええ。定まったものはないんだよ。本体はない。魔障ととらえているのは本人。もし、道がたかい。では、こうやるんだと腹が決まったら、やったらええんだよ。定まったら。これ戒定恵の定。ふらふらしなかったら悩むことないじゃないか。ふらふらしてるから悩んでる。流転してる。これはこうしますと決めたら悩みも何ちゃないじゃないか。以下略。
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