日蓮大聖人の仏法を考える
Sunday, March 2, 2025
己心の法門
2002年1月24日の初代講頭座談会より。
仏法、宗教というのは生活そのものなんだということをずーっと話をしてきているけど、納得できていますかね。日亨上人様は、日常の生活を心がけていなかったならば信心しても無駄だと仰っているの。日常の生活そのものが私たちの信心のありようなんで。もし、日常の生活を無視して信心だ信心だと言うのならばインチキな宗教だ。
そして、もう一つ、己心の法門ということが、まだピンときてないようだ。己心の法門。形がありませんから。戒壇建立も形がありませんから。戒壇建立を姿をもってやろうとするところに、土台無理を生じてインチキを言わなければならなくなってきている。あくまでも戒壇建立ということも形のないものですから。自分の己心の中に建てられるものであって、外に事相としてあらわそうとするから無茶苦茶をやっている。信心としての狂いを生じている。
私たちは勉強するために信心しているわけじゃないんだから。幸せになるために信心しているわけで。それをつかみそこなってしまうと、信心が訳の分からないものになってしまう。
観心の本尊とは御本尊を信じていくことから始まる。中央の題目が私たちの心。三世間。国土世間は場所(住所)。衆生世間はそこに集まっている一切のもの。五陰世間は色・受・想・行・識。物体のありようを言っている。こういうものが自分の一念心から出ている。十界(に十界があって百界)、十如是、三世間で三千。この三千が一念にある。この御本尊様を信じたとなれば行(ぎょう)がなければならない。行がないと信じていることにならない。御本尊に向かっては、唱題修行。日常生活においては、大慈大悲。この大慈大悲を形に表していく。節度のある行動。ものを大切にする。他人の親切が身に染みて分かる。穏やかな言動。この行を始める一念とは、日蓮の一念なんだ。大聖人様と同じように修行させていただきます。日蓮の一念そのものをもって御本尊様に向かう。南無妙法蓮華経と唱題修行していく。一心一念体一なるところを己心という。それは自分自体が御本尊様を信じた。南無妙法蓮華経と修行している。その修行の一念は大聖人様に等しい。そうして自分の体は動いている。これが己心の法門なんだ。
御本尊とはどこにもない、自分の己心の中にありますよと言われるのはここにある。自分たちの一念心のある所に御本尊様はあるということ。
御本尊を信じておる。そして信じた限りにおいては、修行が伴っておる。日常の生活においては、自分の愚心・魔心とたたかっている。自分の身そのものも絶えずそういう動きをしておる。これを己心の法門という。一つでも欠けると己心の法門とは言わない。それは偶像崇拝になりますからね。拝んでいたら功徳がでますということになってしまう。
----------
話が難しく非常にまとめにくかったです。(結構端折っています。。)顕正会を抜けた直後は、まだ国立戒壇でしたが。。御僧侶、(大石寺法門)のおかげで直っています。
注意:座談会では、寛尊の御説法と言われてますが、調べるとリンク先にありました。『富士宗学要集第四巻 観心本尊抄拔書少々 日我敬白』です。
「観心の本尊を沙汰せば、一心と者中央の題目也十法界と者は列座の十界の聖衆也具と者判形の徳也、此の三千在りと一念に者一念信解と者○行の首の日蓮の一念也、中央の一行に三世間あり十界の聖衆に三世間あり、一心一念躰一なる処を己心と云ふ也、此の己心の一心一念遍於法界の時一切衆生の本尊也」
----------
この信心をしたら苦しいものも楽になるとみなさん錯覚している。信心したからといってこの場所が変わるわけではない。御本尊に向かって、自分は苦しんでいるからどうぞ功徳をくださいと言っても大聖人様は首をウンとは振らないわけよ。私が御本尊に御祈念しても無駄ですよ言っているのはそこなんだ。御祈念してもそれは自分だけのことであって、大聖人様にはひとつも関係がない。大聖人の仏法は楽になりたいから何とかしてくださいといってそうなるものではない。それよりもむしろ苦しみの中に飛び込んでいくという腹をもって取り組んだほうが道を開くんだ。逃げるんじゃない。目の前に問題が起きた。その問題と自分が四つになって取り組むのよ。そして南無妙法蓮華経と題目をあげながら日常の生活を行住坐臥の修行と心得て、愚痴はこぼすまい、怒る気持ちは捨ててしまおう、過信はするまい、自分の智惠なんてたかが知れている、いくら体験をしていても仏の智惠には及ばない。そうであるならば自分の智惠は捨ててしまって仏の智惠をいただこう。そうやっていく中に、なんでこんなに現証がでるんでしょうねということになる。現証がでないということはこざかしい知恵がでているということなんだ。頭を空っぽにしてみいやとチョイチョイ言う。空っぽにはならないが。8万4千の煩悩があるから。御本尊様を信じるということが頭を空っぽにするということ。南無妙法蓮華経の御本尊様には三世間が含まれている。我が一念法界に遍満している。これが分かった時はすごいんだよ。自分が御本尊様を信じ南無妙法蓮華経と一念心を持って行動を起こしていくところに三世間が含まれているから、行くところ行くところ成仏の境涯をあらわしていく。これが現証がでる姿なんだ。
大聖人様の仏法は功徳功徳と追いかけていくものではない。自分自体が真っ向から取り組んでいく。この姿勢を持ったところに初めて諸天の働きがある。功徳をいただいている人は真っ向から取り組んでいる人。なんぼやってもいかんという人は逃げている人。
これは猊下様のお言葉。私たちが信心していく上においては、毎日毎日反省していかなきゃならないの。自分の信心のありようを。特に自分の一念心のありようを。なぜかというと信心がカチッとできるもできないも自分の一念心にあるの。刹那刹那に良かったなと思っている自分でも刹那刹那に振り回されてすぐに忘れてしまう。私たちの一念心は常に清浄なる一念心でなければならないと説明されている。信心ができているということは、他人の言葉に振り回されることがない。自分の感情で御本尊様がどうのこうのと言うことがない。軽い気持ちで御本尊様のことをペラペラとやっちゃう人がいる。そういう人には功徳は出ていない。出るはずがない。それは自分の一念心の中に侮る気持ちがあるから。いつまでも御本尊様に対して自分自体が謙虚な気持ちでいられることが大事。そういう風なことをどこまで反省できているのか、と注意なされているの。信仰というものは一点の汚染もない清浄なものでなければならない。それが信じることなの。御本尊様を。もしもそこに自分の感情が入って「拝んじょったきね(拝んだからね)」と仮にもパッと言うことがあると、もうこれはダメだ。今は生きとるから自分の感情によって手足も動いとるだろうけど、我がの感情が動かんようになったときには手足はコチコチになるろうね。こう考えると自分らも怖いけどね。果たしてどこまで成仏の境涯におることができるのか。
自分たちの命の働きは三世間に遍満しておる。国土世間、衆生世間、五陰世間に。すべてに遍満しておる。御本尊を信じる一念心は大宇宙法界に遍満しておる。そういうふうに遍満するような悠々たる命を持っておりながら束縛されてしまっておる。これがこれがこれがこれがと。そう執着している人が死んだらどうなる。コチコチになる。成仏していないから。地獄だろう。今日ここにきている人でそういう人がいるのなら打ち破りなさい。これがじゃない。自分の命が遍満したらそれでいいんだ。束縛されてしまったら自分のことばかりになり、何をするにしても面白くなくなる。怖いんでこれ。良いことも悪いことも何かが起きた時に束縛されてしまう。このときに御本尊様を信じれている人は、「いや大丈夫、大丈夫、御本尊様」と行く。これで命が遍満している。そして我に返る。
「観心の本尊を沙汰せば、一心と者中央の題目也十法界と者は列座の十界の聖衆也具と者判形の徳也、此の三千在りと一念に者一念信解と者○行の首の日蓮の一念也、中央の一行に三世間あり十界の聖衆に三世間あり、一心一念躰一なる処を己心と云ふ也、此の己心の一心一念遍於法界の時一切衆生の本尊也」
御自分で御信心のありようが反省できるということは誠にありがたい。常に清浄なる一念心でおらないかん。その清浄なる一念心とは御本尊を信じて決して疑わんということ。それともう一つ。疑う気持ちじゃないんだけど疑う行為をする。それはなにかというと愚痴をこぼす。不平を言う。愚痴をこぼすということは足らないから何か言ってるわけなんだ。自分自体がこればあ(これくらい)のものなんだと理解したならもう不平は出んわけなんだ。その時にはこればあのものなんだから自分が頑張らなけりゃならないなと己の徳のなさを感ずることになる。「この御本尊、祈りとして叶わざるなし」といわれる素晴らしい信心をしていながら叶わないとはどういうこと。自分の信心の問題なの。大聖人は四條金吾の奥さんに、あなたの信心は清らかなんでしょうけれど信心の力がない。だから願いは叶わないんですよと注意されている。