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御利益と功徳

​このサイトでは御利益信心(信仰)は否定していますが。。御利益と功徳。何が違うのでしょうか。
御利益とは、誰かに福を授けてもらうということでしょうか。自分が不幸で二進も三進もいかない。いいことがありますようにというわけです。
功徳は。。正直、御利益と同じように期待することもあります。

初代講頭の「罰といい、功徳というも全部功徳なんですよ」「御本尊、妙法蓮華経を背景にしてお手上げすると、(困った状態でも)生き生きとしている」「喜びがあって初めて功徳が出ている。喜びがないと功徳は出ないよ」

ということを踏まえると、喜びそのものが功徳なのかな、とも思います。

が、ここまで考えて煮詰まってしまいました。

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困った時の初代講頭。というわけで、2002年3月12日の座談会の冒頭です。

己心の法門だから物質に左右される信心ではない。ものを追いかけている人は、いっつも不平がある、愚痴がある。そこに本当の幸せを大聖人が教えてくださっている。それを私たちがやろうとしている。科学の先を走っている。大聖人様の仏法を、今、科学が証明している。これを言葉を変えると法華経の智惠などといっている。私たちの生命の働き。自分自体が幸せになっていこうとするならば、自分はいったい何を考えているのか。自分は今何をしようとしているのか。家でもよく話をするが、60年以上、南無妙法蓮華経とあげてきたが、本当の信心のありようはたった10年あるかないかだ。たった10年の間で何もかも変わってしまっているの。もちろん50年の間も命というものが守られて、自分でも不思議だ不思議だと思いながら、なんでこんなことが分かって来るんだろう、超能力でもついたのだろうか、神通力でもついたのだろうかと考えたこともある。顕正会(を抜けるとき)でも浅井昭衛氏が念力か神通力でも使ったのかと言っていたそうだけど。半分以上は知っていたが。これも御信心のおかげ。相手がどう出てくるか。考えてるわけじゃない。浅井氏はこう動いてくるな。ぱっと頭に浮かぶ。だからこれはこういう風にしておかなければならない。さっささっさと手を打てれたが。すると、そのとおりだった。だから、「失敗した、裏をかかれた」と舌打ちしていたそうな。そんなものよ。しかし、それが幸せに通じるか通じないかというと関係ない。本当の幸せというのは自分自体の命にゆとりがあって、ものが豊かに見える人。こういうありようが一番大事なんよ。そのことを大聖人様は教えてくださる。それができてきたなら、どんな険しいところにいても、どんな状態であっても、自分自体が険しさを感じれない自分になるよ。御信心がキチっと命に染(そ)んでくるならば、さもしい根性はなくなってくるもんね。いつも困った困った、いつも何か何か、探し回っている餓鬼の根性で信心してくれるなと、うちの住職は言っているわけだ。まだ足らんまだ足らん、南無妙法蓮華経と拝みよったら金儲けはできるか。こうやったらうまい具合いくだろうか。うまい具合いくためには自分がどう考えているか。何を考えているか。その根本、要のところを論じているのが、この信心ですから。己心を観じざれば云々というのはこのことですから。そのことをよう考えられて御信心をしていただきたい。

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とりあえず反省。。

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徳、果報を失っている人はやればやるほど大きな穴を掘っていくのよ。穴を掘るのを地獄ちゅうのよ。本当に御本尊様、すなわち妙法蓮華経、日蓮大聖人様が信じれたときには余裕しゃくしゃく。ずっこけも何ちゃあらせん。ずっこけるのは、自分が分かっているつもりで信心をべらべらとしゃべりながらやってる。これはずっこけてしまっている。これもそうだ、あれもそうだ、自分も思とった。これもずっこけている。何にも分からないのが当たり前。私がそうやないか。60何年間かやってきて、臨終間際になってきて、大聖人の仏法とはこんな仏法だったのか。わずかの間で何もかも急激に変わってくる。もしこれが、50何年間かずーっとやってきていたならどんなになっていたろう。亡くなった方から一回忠告を受けたことがある。創価学会あるいは顕正会。そんなことをやりよると大聖人様の教えじゃないぞ。なんぼ折伏が大事であってもそんなもんじゃないぞ。本当の大聖人の教えは、○○さん、あんた知っとるはずじゃないか。何をぼけてしまっていると言われたことがある。目を覚ませって。やめよ、いうて。名古屋の人やった。日昇上人様の系統の方だったけどね。わざわざ訪ねてきてくれて。今、(顕正会を)やめて、こうやってやっていて、あの人は本当のことを教えてくれよったんだなと思うて。ともかくね、自信を持って言える。50年間やってきた、題目をあげてきた、自分の家のことも考えず何も考えず、信心信心いうてやってきた者と、50年間、題目を上げながら、自分というものを見ながら、家庭というものを考えながら、自分のありようというものを反省しながらやってきた者の差というのは。たった10年そこそこでがっくり変わっている。それが分かってきた時に、遅かった、しもたー(しまったー)、50年損をした思うて。僕は自分の体験を、自分の恥を皆さん方に遠慮なく話しをしている。真面目に信心しなさいよと言っている。遠ざかったら損をするよと言っている。辛い時には南無妙法蓮華経と頭(こうべ)を垂れて大聖人に、他力本願じゃないけどもすがればいい。ずっこけたときにはろくなことがないよ。自分の四悪道が出ているから。ものを四悪道で見ているから、ろくなことないろ。ずっこけたときは流転門にいるから。次から次、次から次、くだらんことばかり考えるから。大聖人様の仏法は還滅門(げんめつもん)。すなわち悟りの境地ですから。本覚の境地ですから。そこには止めるものがあります。流転を食い止めてしまいます。これから先どうしよう、困ったことになったなあ。これをこうしてこうやったらどうなるか。流転をしている。この人。だから頭がこんなだから幸せになっていく道は見つからん。ところが、もう仕方がないじゃないか、なるようにしかならんのだ。出てくるものを受けて立とう。たったこれだけで、すっと止(とど)まった。これが大聖人様の教えやないかえ。だからいつも生き生きとした動作でおれる。御本尊様が素晴らしいということが命に染んでいる人と染んでいない人は、お互いマスクの上にちゃんと出ている。生き生きとした姿が出ているのか、それともショボショボした姿が出ているのか。目を見たら分かるやんか。(信心がずっこけたとき、という質問に対して)

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大聖人様にお願いしても行動するのは自分なのよ。大聖人様が教えてくれてるんじゃないんだぜ。我(われ)が行動するんだぜ。もし大聖人が教えてくれて、なにか耳元でああせい、こうせい、いうなら、それはオカルトだぜ。南無妙法蓮華経は日蓮が魂と仰る。その御本尊様に題目をあげていく。だから日蓮大聖人様というわけで。しかし命の働きというのは自分にある。本当に信心に立った時に、大聖人は何を教えていらっしゃるか。日常生活のありよう、因果のありよう、こういうことでしょ。仏心とは歓喜の中の大歓喜。自分自体に喜びがあるかないか。もし喜びのない生活をしているのであれば仏心はないと認めたらいいのよ。本当の妙法蓮華経じゃない、御本尊様を持(たも)っていないと認めたらいい。ものに対しての大事なものを感じることもない、いつも不平不満を言っている人は仏性がない。そういうふうに見ていくと、自分の命に限りがあるかゆとりがあるかが分かる。ゆとりのある命でものを見ていくのと限られた命でものを見ていくのでは打つ手が違ってくる。手を打つとは物質面に出てくるわけだ。何かにおいて生活に出てくるわけだ。歓喜は物質のない世界。ここで両面を話しているよ。物質で論じると足らんだなんだと言っているが、苦痛を感じるのは自分の命。さもしい根性の者は苦痛を感じている。足らんような状態でも歓喜を感じている者はこれくらいで済ませてもらえたのかなと喜びを感じている。欲ボケしている者は足らん足らん足らんと倒れていく。(大聖人様にお任せして、一番いいようにしてくださいとお願いしつつも出てきた結果が。。という質問に対して)

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功徳は結果ではなく、元々あるものではないでしょうか。まずそこにあるのが功徳ではないかと。それを常に感じ取ることができれば歓喜にあふれた生活(なんか創価学会みたいね)となるのでしょうが、信心を軌道修正するごとに功徳だ功徳だと喜んでいる。そういうことではないかなと。

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