日蓮大聖人の仏法を考える
Sunday, March 2, 2025
ネットCM
創価学会のネットCMを見ました。
学会員の日常を描いたショートムービーだそうです。
お題目を唱える姿が映し出されていましたが、一般向けのためか、御本尊を信じるということがすっぽり抜け落ちている。
また、お題目を唱えて願いをかなえよう、お題目を唱えたから助かった、という描き方は疑問です。
初代講頭は以下のように語っています。
執着しているのが信心が強いと思っているのは間違っている。強信とは、御本尊を信じ切れた、そして日常生活そのものにいつも功徳を感じていけるのが本当の強信なんだ。
日常生活の中で、ああなりたいこうなりたいというものがあれば、それは目標として持ち続けるとして、自分自身が変わっていくこと、自分の希望に沿った自分に変わっていくことが大事。無理をしないよう道理にあった行動をしていくこと。なりたいなりたいと執着してはいけない。(2002年2月21日)
「法華ごころ 山上弘道著 興風談所発行」より引用
~大聖人は窮地にある四條金吾に多くの書状を認(したた)められ、事細かにその心構えを指導されている。その一説。
一生はゆめの上明日を期(ご)せず、いかなる乞食(こつじき)にはなるとも法華経にきずをつけ給うべからず。(『四條金吾殿御返事』)
いかに所領ををししとをぼすとも、死しては他人の物、すでにさかえて年久し、少しも惜しむ事なかれ。(『四條金吾殿御返事』)
あくまでも法華経の信仰を第一とし、ゆめ所領などに執着してはならぬという厳しいお言葉である。~
「ご祈念カード」に願いを書くこと自体、執着ではないでしょうか。また、ショートムービーを見た人は、願いを書いて願いをかなえるためにお題目を唱えることが信心だと誤解しないでしょうか。願いを絵馬に書いて神社に奉納したり、七夕の短冊に願いを書くことと同列と見る恐れはないでしょうか。ひょっとして創価学会の方は自分の願いをかなえることが信心だと思っているのでしょうか。
勤行は仏道修行ではないのでしょうか。
そもそも組織なのか信心なのかをコマーシャルしようという発想がすでに、あっちを向いちゃっているんじゃないでしょうか。
ついでに「創価学会について」というページを見ましたが、日蓮正宗とか、大石寺という文字は出てきません。これは不誠実な態度ではないでしょうか。きちんと事実は事実として明らかにすべきです。皆さん、正しいとか、間違っているとか好きですが、事実を伏せて判断できるのでしょうか。