日蓮大聖人の仏法を考える
Sunday, March 2, 2025
宗教とは
宗教としての日蓮正宗はどうなのか。
御僧侶のお知恵を拝借して進めてみます。
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宗教って?(寺報2001年11月を編集)
宗教というモノは、自分自身の存在の無力さの自覚から出発します。
宗祖が「生死に迷う」「生死に流転する」と説かれるのは、本来的自己(内証真身)を喪失した日常的な生のあり方です。
私達の人生は、自覚するも、しないにしても死への不安に悩まされ、怒りや憎しみ、貪りや愚かさに支配されて生きる煩悩の生であり、迷いながら生きていく生です。そこには、本来の自己はなく、自己は見失われたままです。
宗教とは、このような忘れ去り、逃避した本来の自己(内証真身)を回復しようとする人間の叫びです。無意味なように感じていた現在の生を見つめ直し、整理を加え、離れ、そして、本来的な生に目覚め、真の生へと再生すること、それが、宗教です。
人はそこではじめて生死を超え、永遠の生を見つめ、真に生きることができる。
ところが人間は一方においてはまた迷う愚かな存在です。
人生の様々な段階で、苦しみに追いつめられた時、自己を振り返ることを忘れ、苦から脱れることのみを願い、ますます人生のぬかるみに足を捕られ、迷うがゆえに底なし沼に足をふみいれたがごとくに思うのです。
これを「生死に埋没する」といいます。ここから抜け出るのは、ほんの少しの気付きなのですが、そう簡単ではないようです。
ですから僧俗ともに信仰をしながら、生死に迷う人が多いのです。
しかし少しの気付きを持つことができれば、人は、何時の日にか、本来の自分を見出したいと願い、悟りや解脱への希求の念を起こすようになります。
宗教は、このような求道心によって開かれる、自分と世界の根源的事実なのです。本来の人生の追求、それが宗教なのです。
ところで当宗においては戒壇の本尊・一閻浮提総与の御本尊という概念があります。
『法華経』「方便品」には、「是の思惟を作す時、十方の仏皆現ず」と説かれる部分があります。ここは釈尊が説法する時、方便を説いてよいかどうか迷った時の話ですから少し違うかもしれませんが、これに対して結経の『仏説観普賢菩薩行法経』には十方の一切の諸仏を見たてまつらんと願うならば、
是の願を作し巳って、昼夜六時に十方の仏を礼し懺悔の法を行じ、大乗経を読み大乗経を誦し、大乗の義を思い大乗の事を念じ、大乗を持つ者を恭敬し供養し、一切の人を視ること猶お仏の想の如くし、諸の衆生に於いて父母の想の如くせよ。(開結六八一頁)
と説かれています。一切の人を観ること仏のごとくにし、一切の衆生を自分の父母のごとくに思えと説かれるのです。つまり一切の衆生を自分をかたちづくってくれた存在として尊び、仏のごとくに観じていった時に十方の仏を観ることができる。すなわち戒壇の本尊・一閻浮提総与の本尊を観ることができるというのです。
近頃「大石寺にお参りできるよ!」という宣伝文句に心ひかれる人がいると聞きます。そして、「戒壇の大御本尊にお目通りできる」と喜んでいるそうです。
その喜びからか「本尊を直拝できない者は血脈が切れ、成佛できない」と主張されるようになったようです。
もしそれが事実ならば、大石寺には一閻浮提総与の本尊は存在しなくなり、宗祖が「無間地獄の道をふさ」がれたはずなのに、「開かれてしまった」ことになります。であれば、大石寺の信仰は他宗教と同じ信仰ですから、取り立てて存在しなければならない理由がありません。
当宗の信仰と他宗教の信仰の「分かれ目は何か」、このことをよくよくとり定めるべきです。
皆様方は何なる本尊を信じておられるのでしょうか?
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さて、この御僧侶の問いにどう答えたものか。ずいぶん前の寺報ですが、今頃考えているのも。ねえ。。
かつて、大石寺の三門には「順逆共に来たれ」と掲示されていたとききますが、今はなくなったようです。
楠板の大曼荼羅は、大石寺がしっかり管理する必要はあるでしょうが、信仰世界において戒壇の大御本尊を自分たちのものだとばかりに囲い込んでしまっては、一閻浮提総与の意からは外れてしまうでしょう。
まして信者を増やすことに執心し、それを信者を督励することによって成し遂げようとする姿は、「生死に迷う」「生死に流転する」ということではないでしょうか。
広宣流布が、現実世界における人数だと短絡的に考えていることから起こる悲劇です。
折伏だ折伏だと思っていたら、生死に流転していたと。。
自分の生活を顧みず、飛び回っている姿がそうでしょう。
あれは謗法、これも謗法と顕正会ばりにギスギスしているのも生死に迷っているのではないでしょうか。
顕正会時代は、鳥居の下をくぐるのも遠慮していましたが。道路にまたがって鳥居が立ってるところもあり、車で通るときこれは仕方がないと言い訳したのも懐かしい。
もっともっと大らかな姿を見せなければ正しい宗教とはいえないのではないかと思います。
自分たちにしか通じない理屈とか。
都合が悪いことには蓋をしてしまうとか。
宗門の近現代史をみても、どうも生臭い。
人間臭くて愛嬌があればいいんだけど。。
組織信心は身を亡ぼすということは訴えておきたいと思います。
答えになってないような。。