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発迹顕本

そういえば、顕正会時代は発迹顕本ってよく目にしたなあ、馴染んでいたなあと思って。

ここでいう発迹顕本とは、顕正会がいう「日蓮大聖人は、末法濁悪の人と国を、根底からお救い下さる大慈大悲・絶大威徳の御本仏であられます。」の正体を現したのが龍ノ口の法難だということ。

正信会のお寺に縁してからは、目にすることも聞くこともなく(なかったような)、すっかり忘れていた。というわけで調べてみました。もちろんネット検索。でも結局よく分からず。。

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で、過去の寺報に発迹顕本はないのかなあと再確認していたら、信とは何か、信をとるとはどういうことかという方向に思考が変化して。。

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顕正会のように、龍ノ口の法難こそ、宗祖がスーパー御本仏としての正体を現したとするならば、その仏像を拝むのが筋ではないか。スーパー御本仏に救ってもらおうとするのであれば。信をとるとは、そういうことではないか。顕正会は言行不一致ではないか。

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戒壇の大御本尊が熱原の法難を契機として(宗祖の己心に)建立されたのであれば、これは第2の龍ノ口の法難ではないか。宗祖は龍ノ口で(法華経のゆへに)首をはねられたが、熱原の法華講衆も(法華経のゆへに)事実として首をはねられた。であるならば、やはり宗祖はこちら側にいるのではないか。宗祖が感じ取った世界を本尊としてあらわしたのだから御本尊に向かうのも大事だが、宗祖と同一化というか、宗祖が何を感じ取ったのか、戒壇の大御本尊にどんな願いをあらわしたのかを定めて向き合わなければ、信をとることにならないのではないか。御本尊を鏡とするならば、向き合う自分の己心にも宗祖と同じものが写っていないとおかしいのではないか。

(信心したら御利益があるというのは、初心のうちだけでしょう。勧誘方法としては半分詐欺のようなものです。御利益のためには、やはりスーパー御本仏像に祈って救ってもらう必要があるように思う)

ついでに。

(ひょっとしたら宗祖は首をはねられた法華講衆をうらやましく思ったのではないかと想像してみる)

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佐渡を訪れた乙御前母(日妙聖人)。法華ごころには、大聖人より「あなたの行動こそ、一念三千法門そのものだ」といわれた。そして、「一念三千の肝心とは、凡夫が凡愚ながらに妙法を受持し、真心、志ざしを示すその一念、その姿こそをいうのだと大聖人は仰せなのである。」とあります。これも言行一致でしょう。

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御僧侶は、南無妙法蓮華経とは、「すべての存在は仏のように尊い、そう心にかたく信じ、口にも出していく。」と。当然これにも言行一致が求められるでしょう。

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信仰・信心には2種類あると思います。

南無阿弥陀仏に代表される、救ってもらおうとするもの。

そして、南無妙法蓮華経に代表される(仏の)願いに生きようとするもの。

大いなる存在に救ってもらえるのであれば、言行不一致でもその存在に対する信が正しければ問題ないのでしょうが、願いに生きようとすれば言行一致でないと大問題です。

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あるいは。

刹那成道を調べようとして、阡陌陟記に当たるといきなり発迹顕本がありました。

明者は其の理を貴び闇者は其の文を守る

宗祖は開目抄に「日蓮といゐし者は去年(こぞ)九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此は魂魄佐渡の国に至りて云云」と、御自身の事を仰せである。これを以て当家では宗祖の発迹顕本とする。然るに龍之口法難を指して宗祖が発迹顕本したとするのは何れの文証に依るかなどと聞くのは、その事自体愚であると云わねばならない。宗祖に発迹顕本と受けとれる様な文証があるとしても、発迹顕本の刹那そのものについての文証などある筈がない。天台の自解仏乗に文証を求めるのと同じで、文証のないところが宗祖独自の境界と云えるのである。

そもそも宗祖が龍之口に於いて発迹顕本したと思うのは弟子の得分であり、これを師弟子の法門と云う。「魂魄佐渡に至る」を単に文章の綾として見るか、この一点を捉えて宗祖の発迹顕本と考えていくかでは、結果として天地雲泥の開きがある。この一文を法門として捉えるなら、そこに一宗の根源を求める事もできる。ここに御書の読み方の重要性がある。

法門の世界に於いては文証の介在する余地はない。あるのは感得だけである。感得は受持と同じ様な意味であり、文の底に秘して沈めた法門を知るためにはこの感得以外に方法がない。弟子が師の内証、即ち文の底に秘して沈めた法門を感得した時、そこに戒壇の本尊を感じ、本仏日蓮大聖人を見る事ができる。自解仏乗というのもまたこのような境界を云うのであろう。

かかる意味に於いて感得は師弟子の法門の中にしか存在しない。而も師弟子の法門は文証の通用する流転門の世界ではない。唯仏与仏乃能究尽(クジン)の還滅(ゲンメツ)門の世界での話である事を知らねばならない。

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スーパー御本仏と捉えるのも師弟子の法門でしょうか。宗祖がマントを着けて佐渡へ飛んで行ったのであれば、それもいいね。

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