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日蓮大聖人の仏法について(あなたが)考えるサイトです。

日蓮正宗の信仰は今どうなっているのでしょう。

ここでいう日蓮正宗とは大石寺、創価学会、顕正会、正信会(任意団体・宗教法人)など、大石寺やそれを母体とする組織のことですが。

釈尊(お釈迦様)を超えるスーパー御本仏・日蓮大聖人を信仰する人も多いのでは。

宗祖が聞いたら「ちゃう、ちゃう」と手を左右に振りそうです。

関西弁ではないかも。。

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日蓮大聖人の信仰をする組織は、諌暁八幡抄にある「日本の仏法」とは何かを仲良くお勉強会でも開いて追求してはどうでしょう。

真蹟のない御書を振りかざしたり、折伏折伏と仲間をあおったり、選挙運動に駆り立てたり、戒壇本尊で人を釣ったり、手っ取り早く人数を増やすために他組織から引き抜きを奨励したり。

組織のために仏法を利用する。組織が主で仏法が従。言語道断です。それは仏法ではなく信仰でもない。信者(会員)は、信心していると思ったらタダ働きしていたという笑えない話です。

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日蓮大聖人の信仰をする人は、誰にでも挨拶する時は手を合わせたらいいと思うんですよね。不軽菩薩がしたように。それは挨拶じゃない、とか言わないで。顕正会時代は、手を合わせるのは御本尊様だけと思って、いただきますの手を合わせるのも遠慮していました。

戒壇の大御本尊は一閻浮提総与といわれます。十界本有常住の御本尊だからすべての人に御本尊はまします。「乃至法界平等利益自他倶安同帰寂光」の信仰だから人に手を合わせたり、自身を養う食べ物にも手を合わせるのは当然です。

ウクライナやロシア、そしてイスラエルやガザ地区を見ていると、どこかよそに自分が信じる対象があるのでは、その宗教には欠陥があると感じました。唯一絶対神の宗教でも、自身の内に神がいて、その他の人にも神が宿っているという信仰じゃないと宗教としてはポンコツじゃないでしょうか。信じる人にも信じない人にも根本尊敬するもの、唯一絶対神が宿っているとすれば戦争はないでしょう。

 

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宗祖曼荼羅は不軽菩薩を礼拝する日蓮だと思います。(曼荼羅に不軽菩薩は書かれていないので)この曼荼羅に手を合わせて南無妙法蓮華経と唱える人は不軽菩薩です。日蓮大聖人と不軽菩薩が礼拝しあっている姿です。「乃至法界平等利益自他倶安同帰寂光」です。ここに成道も平和もあります。だから日蓮正宗は仲良くやっていけるわけです。よね?

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初代講頭は、御本尊様にお経をあげるのは私たちが仏様に説法を申し上げているんだと話していました。説法を聞く仏様は私たちに手を合わせているはずです。そうすると勤行だけでなく日常生活の言動(人の振る舞い)も気を付けようと思います。仏様から期待されてると思えば生き方が変わる。組織の言いなりの信心では仏様の期待には応えられない。組織の期待は人と金です。仏様の期待とは全然別物です。

 

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自分が考える日本の仏法とは、道行く人々を礼拝する不軽菩薩とその不軽菩薩と礼拝し合う人々です。宗祖はそれを夢見ていたのではないでしょうか。

末法には一乗の強敵充満すべし「不軽菩薩の利益」此れなり。各々我が弟子等はげませ給へ、はげませ給へ。

「大石寺法門」の発刊に寄せて、に「日蓮が説いたものは宗教そのものではなく、信不信の枠を超えた仏法という思想であり、それは人間と人間を真の「信頼」でつなぐ大思想であり、したがって信仰や信心にのみ結びつける今日の大石寺のやり方は、日蓮の真意に大きく反している」との指摘も腑に落ちます。

​大石寺の人と創価学会の人が道で出会うと互いを礼拝する。これが日蓮大聖人の信仰をしている人だと自分は考えます。

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