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即身成仏

2006年5月16日 初代講頭座談会

・私たちに信があれば、どんな人も捨ててはいけない。すべての人に仏性がある、と見れない人は信がない。

・結果を求めるのはお釈迦様の仏法。大聖人の仏法は受持即観心。本果を求めているのではない。大聖人の仏法は修行以外にない。これは歴劫(りゃっこう)修行ではない。修行の中に即座に成仏する。持っている中に己心を観じた。己心と仏心は異ならずと観た。これが即身成仏の姿。即成就仏身。

​(注:阡陌陟記P234に(4)即身成仏 三世諸仏総勘文教相廃立に「己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に生死(しょうじ)の夢を覚(さ)まして本覚の寤(うつつ)に還(か)えるを即身成仏と云うなり、即身成仏は今我が身の上の天性・地体なり煩も無く障りも無き衆生の運命なり果報なり冥加なり」とある。)

・ひと月そこら先には死にますよと言われたら、たいてい青い顔をするよ。青い顔したくなかったら、元気な間に信心に立っとらな。これから先、何年生きるか分からんけども、その間にひとつひとつ整理していかなならん。一番最後に残る問題がある。それは身内の問題。情が移っている。みんなに情が移っている。そうするとその情をひとつひとつ断ち切っていかなならん。自分がそれこそなんにもない自分だけの姿にならなければ。そして成道を遂げていく。できるかい、それが。一切関係なしの生命だけの姿に戻っていく。これが成道だよ。成仏とはそういうこと。

・やったらね、答えが出るということを掴んで帰って頂戴。どんな答えが出るか。それは僕には分からん。本人の有り様だから。そして決して罪障が深いと言ってはならん。深かったらね、こんなすごい信心できないよ。福運果報があるからできるんだよ。では、いろんなことにあうのはなんでなんだろう。善知識なんだよ。それによって自分が成仏への道を早めていく。妙法蓮華経を知っていく。

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この日の座談会は3時間近く。最後は雑談のようになって、狐憑きだのヘビ憑きの話がでたり(勤行の時、正座してるのにピョンピョン頭の高さよりも高く跳んだとか、ヘビのように畳の上を)。。家を借りていたころ身体の調子が悪かったそうです。これは、謗法ではないかと探し回るが見つからない。御本尊様に祈念したところ、かまどの裏から2枚、別のところからも1枚の札が見つかり、燃やして灰になったとたん身体が軽くなったとか。同じく不調の創価学会員に相談されて、その家に泊まり込んだところ夜半に天井あたりから人の怪、物の怪のようなものが降りてきて。これはと思い、翌日、天井裏に上って見てもらったら、神札がどっさり入った箱が出てきたとか。処分したらその人もすっきりしたそうです。

顕正会時代は、謗法払いとか、謗法謗法とうるさかった。気を付けなければと思いつつ、今は、あれは謗法、これも謗法と騒ぐことはなくなりました。(どこかに書いていたような)

若かりし頃は、町の図書室で借りた宗教関係の本をよく読んでいたなあと思いだす。生命の實相とか世界人類が平和でありますようにとか阿含宗とか。。自分でお金を出してハマっていたのは石井普雄氏の「最後の超念力」。本だペンダントだシールだと。懐かしい。シールは電気やガスのメーターに貼ったら安くなるとか。ホント迷いの衆生です。。カセットもあったか。唸り声のようなものが録音されていた記憶が。ムーの付録の両界曼荼羅ポスターも貼ってたか。当時は引きこもりだった。歳とったらどうなってるのかなあと。不安しかなかった。そして顕正会。長居せずに良かったなとつくづく思います。というか、普通は続かないよね。折伏折伏で。友達なくします。毎日がしんどくなる。即身に地獄を現ずる、かな。しかし、初代講頭も仰っていたけど、顕正会があったからこそ仏法に縁できたという面もある。複雑。顕正会を抜けるときに、残る者、宗門へ行く者、初代講頭について行く者と分かれた。今までさんざん宗門批判をしていたはずなのに、宗門へ行った人達のことは理解できなかった。今度は宗門側に立って、折伏折伏と、やって来ると聞いた時には何も変わってないなと思った。

初代講頭の指導を聞くたびに、信心は甘いものではないと思いつつ。ちゃらんぽらんな信心でも、今はあの頃とすっかり生活が変わってしまったなあと思う。修行は続く。

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