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日蓮大聖人

各組織で、日蓮大聖人はどう定義されているのか調べてみました。もちろんネット検索。

 

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冨士大石寺顕正会
日蓮大聖人は、末法濁悪の人と国を、根底からお救い下さる大慈大悲・絶大威徳の御本仏であられます。

解説

要約すると、スーパー御本仏だそうです。

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創価学会
度重なる弾圧という最悪の状況下にあって、日蓮大聖人は揺るぎない金剛不壊の生命境涯を顕現しました。釈尊の仏法が効力を失うとされた末法において、人間自身の内面にある生命本来の偉大さを体現することによって、万人成仏の道を開いたのです。ゆえに創価学会では、日蓮大聖人を「末法の御本仏」として尊崇しています。

解説

「日蓮大聖人は揺るぎない金剛不壊の生命境涯を顕現しました。」「人間自身の内面にある生命本来の偉大さを体現する」とあります。創価学会はスーパー御本仏派かと思っていましたが、この説明からは日蓮大聖人は率先して(末法の)万人成仏の道を開いたから「末法の御本仏」のようです。ということは、我々凡夫と何ら変わりない存在として捉えているのでしょうか。会員のみんな頑張ればあのように成仏できるぞ。なんて。。どんな成仏か分からないけど。。日蓮大聖人必要ないなあ。サイトからは、日蓮正宗や大石寺は消されていますが、日蓮大聖人も前面には出てこないですね。

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日蓮正宗(大石寺)
 この法華経の予言どおり、釈尊滅後2000年が経過し、釈尊仏法の功力がなくなる末法(まっぽう)時代に、民衆を救済する仏として出現されたのが、日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)です。

解説

日蓮大聖人の項目はあっても、上記は日蓮大聖人の教えについてです。その正体は?「釈尊仏法の功力がなくなる末法(まっぽう)時代に、民衆を救済する仏として出現された」とあるので、やはり釈尊を超えるスーパー御本仏ですかねえ。

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日蓮正宗正信会(宗教法人)→宗教法人正信会かな

「末法の法華経の行者である日蓮大聖人」

「末法の法華経の行者である宗祖こそ末法の法主」

解説

法華経の行者日蓮なら分かるけど。。意味不明です。いま信心している我々も法華経の行者です。末法に法華経の行者同士が雁首揃えて何をするんでしょう?迷って迷って迷い抜こうという意気込みだけは伝わってきます。それが仏法かもしれないけど、日蓮大聖人とは信仰対象です。それを信仰する我々と同座させてるような。

と思ったら末法の法主です。新用語?お願い誰か説明して。御本仏ではなく法主なのね。末法の法華経の行者である私こそ末法の法主。そりゃ迷うよね。

また、気になった点として「立正安国を願う」の項目で次のようにあります。

「山林などに隠棲して社会と離縁し、庶民の苦悩や悲哀とは無縁の存在として、ひたすら真理を探究する仏道もありますが、」

この文は、日有上人の「縦ひ此の如く、山林に斗薮し萬人に対せずとも義理に違背之れ無くんば折伏の題目と成り、普く諸人に対する談義なれども、廣の修行は摂受の行相となるべきか、是則ち大聖の仰せ云々」の精神と異なって見えますが。

まだある。

正信会の法人化という項目で、「各自がその信念による道を選び取って行くことになりました。」とある。寺の出家が法人を選んだら在家もそっちに行くのが普通でしょう。どんな事実を持って在家が選んだといえるのかと思った。が、よく読むと、各自は僧俗ではなく僧だけだった。在家の信者は選び取ったんでしょうか。

似てるようでちょっと違う。なんかおかしいなというのが宗教法人正信会の感想です。宗旨分が違っているから表に出てくる宗教分も変わってきているのではないかと思います。

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日蓮正宗正信会(任意団体)

論外。ホームページは死んでます。閉鎖すればいいのに。。それか、各寺院の寺報を掲載するか。で、気に入った寺の所属になると。これが選び取るということでは。JIIN48総選挙です。

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日蓮正宗系統であれば、日蓮大聖人とは末法の御本仏と捉えているはずですが。。日蓮大聖人の項目はあっても詳しい説明はないですね。サイトなので一般向け、もしくは馴染まないということでしょうか。

仏といえば釈尊です。その釈尊(の教え)も末法には通用しない。その末法に出現した仏とは何かという説明がほしい。

その説明がないから、末法に出現した仏なんだ。釈尊よりもエライんだ。スーパー御本仏なんだ。と、ショートしてるんじゃないでしょうか。

こうなると末法が邪魔だな。と思ったら、阡陌陟記に次のようにあります。

 この小録を名付けて阡陌陟記とする。東西南北わたりあるきと訓むのであるが、実は四維上下を求めて陟記する意を含めている。東西南北は仏の領する所、四維上下の一隅は上行菩薩の知らす所の意、前者は在世正像末の末法、後者を滅後末法の意を含めることにする。今各項目を断片として文字にしてみた。この中から何か新しく、而も古い富士の伝統に立った法門を考えだしてもらいたい。 

 昭和55年12月 臥龍山房

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