日蓮大聖人の仏法を考える
Sunday, March 2, 2025
罰当たり
令和の世となり、10連休ですがいかがお過ごしでしょうか。
ニュースを見ていると御朱印をメルカリで転売している輩がいると神社の禰宜が怒ってました。
神様が必ず見ているので罰が当たる、とのことです。
この御朱印とは参拝した証だそうですが、神社は実質的に500円で販売しているようです。
神の名のもとに商売している神社に罰は当たらないのかなと心配です。
神様を利用して金儲けをしていることが、既に罰が当たった姿なんだ(因果倶時)と判断するのが仏法的な捉え方でしょうね。
もう地獄に落ちているんですよ。(優しく)
気が付きませんかと。(優しく)
このように我が身を振り返ることは非常に難しいと思います。
組織が正しいというのもそうでしょう。
組織は正しいけど、あの人の信心はおかしかったとか。
自身、顕正会にいたときも顕正会は正しいと思ってましたもの。
平成になった頃か、妙観講だったかに暴力を振るわれたとかで、顕正新聞にその時の様子がイラストで載ってましたが。
それを見て、下品なイラストを載せるなあと思うくらいで組織がおかしいとは露も思いませんでしたね。
そして、顕正会史に燦然と輝く〇〇事件。
〇〇事件と呼ばれていることも知らなかったけど。。
あの頃の男子部長は本当に格好良かった。(今はどうされているのか。ネットでは消息不明です)
初代講頭から「仏法は依法不依人ですよ」と言われたことが身にしみる。
法に依って人に依らず。
法に依って組織に依らず。
法に依るとは、日常の生活に即すると法華経の世界にどっぷりと浸かることでしょうか。
しかしまあ、昔のことを懐かしむのも齢ですかねえ。
追伸
法華経の世界にどっぷり浸かるというのは、御僧侶の奥様の言葉だったような。信心とはそういうものだと。記憶力がないもので。。掲載されていた寺報はどこかにある。はず。。
そして御僧侶から。午年の新年挨拶で、午だけど麗という字を書いた。二度と騙されないようにという願いです。『考える事をやめて、人の言いなりになり、騙される人を、「馬鹿」と言うようです。』とあります。←これは手元にあった。
お互い、心したいモノです。と結ばれています。
騙されないだけでなく、騙しているほうに回っていないかも常々確認(反省)すべきと思います。
騙されているということは、知らず知らずのうちに騙しているほうの一味になっているということではないでしょうか。
お互い、騙している意識も騙されている意識もないんでしょうけど。。
そして依法不依人に戻る。