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初代講頭の伝言

初代講頭は創価学会経由で顕正会の支部長でした。詳しい経歴は知りません。このサイトに掲載しているのは顕正会を抜けたあとの座談会(2001年9月~2009年7月)のものです。故人ですが、いまだに音声を聞いてはハッとしています。

なお、初信の方向けではありません。信心してない人も理解できないでしょう。真面目にマトモな信心を十年、二十年と続けて、信心とは功徳とはこういうものかと分かるのでは。初信の方は、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えれば功徳がありますよ、でいいのかもしれない。(組織頼みの信心はマトモとは思えません)

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・一人信心はなりがたし。みんなで寄り合い、御本尊様の功徳を語り合ってほしい。

​・座談会は求めに応じて開いている。座談会やるからおいでじゃない。これは信心に基づいている。求道心というものがないと来ても意味がない。

・求道心を持っている人は(話を聞いて)命に留まるものがある。生活していく中でハッと思うことがある。20年、30年、50年と信心を続けてきて最後の大きな目的に到達する。「信心していていいことずくめです。」←そんな信心はどこにもない。お互いが愚悪愚迷。うまくいかなくて当たり前。良いといって(人を)頼み、悪いといって憎むこともない。日蓮が弟子は臆病にてはかなうべからず。命は法華経に預けている。南無妙法蓮華経と、そのままでいこう。これが私たちの信心なんだ。

・会えないときはテープを聞いて、自分の信心に対する姿勢を振り返ってほしい。

・仏法は生活法。

・執着してはいかん。執着が起こっている間は、問題は解決せんよ。一切を御本尊様にお任せしようと腹が決まったときに答えはポンと出る。

・まな板の上の鯉になりなさいや。

・流されなさいや。みなさん流されちゃいかんと思うとる。そうじゃない。流されまいと踏ん張るから苦しむんやないかえ。流されたらええんよ。なんちゃ心配いらん。

・バナナの皮を踏んづけて頭を打ってもありがたいと思える信心かどうか。信心というのはそこまで行かないと本物じゃない。(うちの住職さんはね、バナナの皮を踏んで後ろ向きにひっくり返っても大聖人の御計らい、功徳と取れるような信心をしようと

・神仏というものはおらん。おるとオカルトに変わってしまう。我々が思っているような神様や仏様がいるわけではない。実際にあるのは妙法の体である地水火風空の五大しかない。自分の命そのものがキチッとなっていったときは諸天善神の働きに変わってくる。己を守っていく。ここが分かっていないとオカルトになる。拝んどったら助かる、守られる。これはオカルト。守られるということは自分がそれなりの信に立っている必要がある。ここを日有上人が注意されている。

・本物の折伏とは。待つこと。自分が南無妙法蓮華経と題目をあげ、御本尊の功徳を感じ取って、自分自体に徳がついていく。果報がついた姿で相手に接していく。その姿をもって相手に信心させていきなさい。寛尊の御指南。折伏とは己に向けるもの。

・質問者。→「待つということがどんなに苦しいことか。待つということがどんなに難しいか。あの人はもうダメだ、自分はこれだけしてあげたのに、軽々にそんなことを言ってはいけないと分かりました」

(その人が)どんな状態であっても、信用したなら最後まで信用していこう。待つんだよ。待ってあげるんだよ。

あの人が、あの人がと言う必要はない。人じゃないんだ。自分はどうなの。あなたの話で欠けているものがある。御本尊様を信じるということが。信じられないときは、理屈をつけてゴチャゴチャ言ってる。本当に信じられたときは理屈はいらないんだ。一切が妙法蓮華経と信じ、御本尊様に南無していくんだよ。

・執着を断ち切るということが大事。執着心は仏道修行を妨げる。執着心が起きて御本尊に向かっても意味がない。執着を明らかにする。病気です。これだけでいい。

・一番いけないことは人を恨むこと。自分自身が変わらないことには物事はうまくいかない。

自分の人生に明確な目標がない人。向上心がない人。去年と同じことを聞いても自分自身が向上していれば受け止め方が違ってくる。

否定的、排他的な性格では誰からも相手にされなくなる。果報を失っていく。すべて己心からでていること。自分が大きくなろうとすれば己心が大きくならないといけない。

・不自惜身命とは、決して自分を捨てるという意味合いではない。南無妙法蓮華経こそが真の自我なんだから、自分が自分がという思いを捨てて、どこまで南無妙法蓮華経を大事に思えるか、正法に我が身を任せていくことができるかという信心の姿勢であって、御本尊に一切をお任せしました、お手上げになりました、という状態が不自惜身命の信心。

​・正しい正しいと言い張るのは修羅。

・信心は難しい。自分の四悪道のままの信心をやっていくのは簡単。自我偈は大聖人様ですよね。では、自我偈のとおり我々は生活していくことができるだろうか。なかなか難しい。「放逸著五欲 堕於悪道中」。故に当宗は無執の経をたもつが故に無執の人(にん)にならなければならない。執着をしている者が南無妙法蓮華経と題目をあげても功徳は出ない。

・信心はいいことずくめの間は本当のところは分からない。調子のいいことをペラペラとしゃべっていても、困難にぶつかったとき、どうしようもなくなったときに全部投げ捨ててしまう。大聖人様は自分を強くしてくれるのは敵だと仰っている。これを諸天善神という。変毒為薬させていく。罰といい、功徳というも全部功徳なんですよ。

・御本尊の表装は昭和26、7年頃までは赤だった。上行菩薩の徳は火徳。真言や念仏も赤で紛らわしいということで、戸田城聖氏、堀日亨上人が変えた。功徳が出ないという話ではない。

・私たちが御本尊に向かってお経をあげるということはね、仏様に説法を申し上げている。大聖人様が海中から取り出されてきたところの釈尊の像に向かって拝んでおったという。要するに仏に向かっての説法。我々はやはり同じく仏に向かって説法する。これがお経をあげる意味合いなの。これは当宗の深秘(じんぴ)の法門。

 

・勤行の観念文とは大変大事なの。この観念のときに他のことを考えたときはもうダメになっちゃう。お経をあげていく、題目をあげていく、そのあとの観念文の観念。なぜ大事か。一念法界に遍満すと大聖人仰っていらっしゃる。私たちの一念とは必ず法界に遍満してる。だから余分なこと、つまらんことを考えたら、そのとおりの口にだしたとおりの結果がでてくる。御本尊様に対しての感謝の思いでやってるのか。自分の一身上のことを願ってるのか。それはそれでよろしいけども。いずれにしたところで観念は大変大事だ。観念をあげるがゆえに題目をあげてる。観念をするがためにお経をあげてる。と、こういうふうに思ったらいい。片一方においては仏に向かっての説法を私たちはしておる。だから勤行のときの姿勢というものが問われてくる。

​・仏法は有言実行。

・大聖人はどんなことがあっても信心大事にしておれと言われる。これは自分の煩悩障に打ち勝つこと。煩悩障が起きてくると不安になる。妙法蓮華経を信じ切れたら不安はなくなる。

・自分自体は地水火風空の五大じゃないか。いつ死ぬか分からない。何のために生まれてきたのか。知りたければ自我偈を読みなさい。我々がどうしたらいいかちゃんとでている。自受法楽しなさい。苦しむために生まれてきたのではない。良かったなあという人生を送らなければならない。自分自身の豊かな生命をより豊かにしていく。些細なことでも良かったなあと思える自分なのか。たったこれくらいのものかとさもしい根性なのか。

・言葉の不思議。商売でも自分が成功しようと思えば「困った、こんな問題が起きた」と言っている間はダメなの。「やり抜くぞ、必ず道は開くぞ」と自分を励ましながらやっている人は道を開いていくの。言葉というものは自分の一念心が言葉に出ている。南無妙法蓮華経は、どんな境涯であっても関係ない。題目をあげることによって救われる。たった一言の妙法蓮華経によって救われる。法というものが信じ切れた時に刹那成道を遂げるの。自分の言葉が妙法蓮華経になっている言葉なのか、それとも軽んずる言葉なのか。

・別に相談に来なくても、妙法蓮華経のすごさが分かっていれば自分で(問題を)解決させていけばいいのよ。自分のありようをいちいち人に相談しなければならないような弱々しい信心では困る。自分自身がこれはこうだと思ったならばそれで突っ張っていく。それでいかん(ダメ)となったときは、よし、やりそこなったか、では改めてこれで行こう。それでええのよ。そうやって、やっていくところに強さができてくる。

・自分の信心の姿勢が全部生活に出ている。それに気が付いていない。罪障というものがどれほど怖いものか。宿命・宿業というものがどれほど怖いか。分かっていない。だから気楽なものよ。過去の業報によって、こういう姿が出ているということに気が付いたならば、これは油断がならんとなる。自分自身の一念心が油断していると、よう受けて立てない。罪障というものは下手をしたら自分を奈落の底へ突き落してしまう。そこで自分自体が強くなる方法を考えなくてはならない。そうなると信心しかない。仏法というものは生活法を教えられている。大聖人ははっきり仰っている。世間の法をよく心得ている人は仏法を分かっている人なんだ。仏法が分かってきた人は世間の法もまた仏法であると気が付く。我々は生活を見るときは仏法を体として見なければならない。

・過去の業報によって自分が痛めつけられる。子供が子供がと言ってもそれは自分の業報なの。人によって(業報の)姿を見せられる。親の介護をする。周りからは大変ですね、親孝行ですねと言われても、それは親が自分の業報を示している。やる限りにおいては楽しくやったらいい。にこやかに。そして業報を乗り切ればいい。人に託して(業報が)見えてくる。大聖人は人と人との関係は鏡の如しと仰られる。業報だけは逃れようがない。

・この世の中は因果律が厳然として備わっている。人が見ていなくても自分がピシッとやっていれば必ず返る。我に返る。特に仏法はなおさら。何の偽りもない妙法蓮華経を信じれる自分になっていないと。それは必ず自分に返ってくる。これが当宗でいうところの本因本果なの。もし本果だけを論じるのであれば日蓮大聖人様のごとくだけれども、そりゃいかん。本因を論じないと。その本因はここ(胸中)にあるから。真実、妙法蓮華経を信じておるかどうかということが問題なの。これは日宥(にちゆう)上人様のお言葉だけれども、本当に妙法が信じれたというのであれば、必ず題目、口唱ができてくる。題目をあげていることが本果なの。そして本因は信じ切れているということ。これが僕たちの信心の姿勢なの。そこに妙智、不可思議な智慧をいただくこともできる。それは題目が真剣な思いを持ってあがっている人に与えられる徳じゃろうね。妙智とは自分じゃ分からん。それが智慧であることは。分からんけれども、こうしようかなと思うことが誰かにやってもらっているし、手を打てれないなあと思っているところに誰かが来て手を打てれるようにしてくれるし、あそこへ行かんといかんがと思っていたら誰かが行ってくれているし。事実として不思議なように何回も何回も繰り返し起きてくる。これが妙法蓮華経の不思議さよ。

(音声を起こしています。「日宥上人」と聞き取りました)

・みなさんは考え事が知恵だと思っている。大聖人様は南無妙法蓮華経が智慧ですよと仰る。これを外護の智慧という。

・質問者。→油断の姿勢とは。

油断の姿勢?油断をしているときの姿勢?

油断を生じているときは煩悩障に侵されているときが多いからなあ。何かあるたんびにグジグジ言ってるのと違う?この油断とは何を対象としているかといえば日常生活ではなく、御本尊に向かう姿勢のことを言っている。姿勢が崩れると一番に仏道修行がしんどくなる。テレビが面白くなってくる。ケンカせんでもいいようなことでケンカが始まるろうし、口舌を言わんでもいいようなことにも口舌を生じる。そして、モノに感謝する気持ちをなくす。

油断を生じていないときは、生かされておるということに気が付く。一つのモノでも出あいということを感じている。このプリントでさえも一つの生命と見たならば、物は言わんけれど大事に扱っているときはお礼を言うはずだが。このプリントで自分の仏道修行ができると思えば、何でもないではない。その本人の信心のありようでこのプリントは貴重な存在になるはずだ。そういうふうに捉えられる自分なのか。単なる書き物とみるのか。

あまり(プリントは)他人様にあげない。あげても棚に突っ込んで読まない。大きな罪障を積んでいるんだもの。なぜ。文字即仏じゃもん。その文字によって自分の仏性を開く。そういうことがいくらでもある。それを読もうともせず突っ込んでしまう。それじゃあ意味がないろう。泣きよる。

・人生はどんなことが起こるか分からん。業が起こるが故に病んでいく。他人のせいじゃない。自分が持っている業報によって病んでいく。さいなまれていく。油断をしていたならこの業に飲み込まれてしまう。油断を排し、南無と自分自体が実際の法に、そこに生きていかなければならない。耐えるんじゃない、生きないかん。これが僕たちの本当の人生だと気が付かなきゃいかん。人生がこういうもんだなと気が付いた時には素晴らしい人生に変わってくる。みんな宗教というものは助けてくれるもんだと思ってやっている気がする。その気持ちがある限りはオカルトじゃ。正しい仏法によって自分の生き方がはっきりする。この生き方を以てやっていくのが大聖人の仏法だと気が付かなければならない。これは今までの住職さんの信心の指導、勉強のありよう、普段から話をする中で、これをつかませてもらうことができる。(顕正会時代と)全く違う。信心のありようが。

・質問者。→その基本は朝晩の勤行ですか。

それはちょっと違うが、朝晩の勤行ができるかはその本人の信心にかかっている。なんぼ朝晩の勤行ができていても、それが真実のご報恩の勤行なのか、自分が儲けるために拝んでいるのか。全然違う。儲かるために御本尊に向かうのなら止めとき。儲からんき。しかし自分が成道を遂げなきゃいかんと御本尊に向かうのであればきちっとしていたらいい。お題目は5分でもいいから。全然違ってくる。こうなりたいと思って拝んでいるんだったら止めとき。自分の煩悩障によってうまい具合に行く、と思ってやっている人がほとんどなの。それで失敗する。そんな甘い世の中じゃない。分からないから妙法蓮華経で行くんだ。妙とは蘇生の義なり。これが妙法蓮華経のすごいところだ。どん底生活の人でも立ち直る。煎り豆に花が咲く信心ですよと言われるのはここにある。朝に晩に生かされておる。今日も良かった、今日も良かったと感謝しておる。粗末なものを口にしてもおいしかったねと言えれる自分なのか。こんなものが食べれるかと放る人なのか。それで全部決まってくる。厳しいけれども。それが全部、妙法蓮華経に行ってなければならない。

・親を大事にする人で不幸になった人はいない。自分本位で親がどこにいるかも分からない。そんな人で守られる人はいない。うまい具合にいきよるようでもグシャッといく。仕事でもなんでもうまくいこうと思えば、親とコミュニケーションが取れているか、親の意見を用いているか。こういう大事なことが仏法には説かれている。大聖人様は教えてくださっている。子供が幸せにいくことを願うのであれば、親を大事にすることを教えること。あんたはあんたで元気でやれよ、私は私でやるからと言ってはいけない。自分(母)を大事にしろと言えないのであればお父さんを大事にしろと言えばいい。

「​孝と申すは高なり。天高けれども孝よりも高からず。又孝とは厚なり。地あつけれども孝よりは厚からず。」

(たまたまですが、これを打ってる最中に届いた2019年10月第58号の妙徳院だよりに『上野殿御消息』に曰わく「法華経を持つ人は父と母との恩を報ずるなり。我が心には報ずるとは思はねども、この経の力にて報ずるなり。」とあります。この経の力、というのが初代講頭が何度も何度も不思議だと言われ、南無妙法蓮華経が智慧ですよと言われたことでしょう。しかし、なにかに力があって、それに助けてもらおうというのであれば、即座にそれは違うと大目玉を食らうことになりそうです。妙徳院だよりでは、仏教の一番の基本は四恩であり、「一に父母の恩を報ぜよ」とご教示されているとあります)

​​​・真心(まごころ)が一番大事ですよ。御本尊に向かうことによって自分が成仏する。それによって周りを成仏させる。

・家が栄えるかどうかは人を見れば分かる。しかめっ面をした人が出てくるような家では。また、人の出入りもないような家では栄えない。

・御信心をしていく上においては、邪念を捨てて子供のような気持ちで御本尊に向かってください。必ず守られるから。あの人が守られて私が守られないということは絶対にない。うまくいかないときは自分の思いを反省すること。自分が何を考えているのか。拝んだら功徳があるとか。確かにそれはあるが、方便だから。御本尊に向かった時は自分自体が幸せになっていく、妙法蓮華経を生き抜いていこうという思いだけでいいから。生かされておる、その中でいろいろなことが起こってくる。それは生かされておる中で起こってくることだから心配いらん。その時は自覚すること。罪障ということを。気が付きながら乗り切っていく。そうやっていくときには必ず守られていく。

・御信心は色増せば増すほどに(生活は)素晴らしくなるからね。腹を決めていこう。前方真っ暗闇で、壁ができているような問題を抱えている人がいるかもしらん。そんなものは問題でもなんでもない。自分で勝手に問題にしているから。それ(罪障)をきちっと把握して御本尊に向かう。乗り切らせてくれ、ではない。自分の業報だということが分かったら、罪障消滅だろう。これが乗り切る方法なんだ。餓鬼道の根性を捨ててしまって成仏する方へ走っていく。そうすると見事に答えが出る。

・問題が起こったときには妄想が起こる。妄念する。だから正しく物事を見ることができない。バタバタして流転している。所詮は自分自体の一念心とはどこのものなのかといえば森羅三千なの。これを戒定恵の三学という。南無妙法蓮華経は何かは分かりっこないの。不可思議境と大聖人は仰る。言語道断、心行所滅の法ですよ。勉強や思索では決して分からない。これを知るためには自我を捨てて、我慢偏執を捨ててしまう。計算を捨ててしまう。計算どおりに行く世の中ではない。これを末法という。大聖人は仏とは人だと仰られる。じゃあ人の振る舞いとは何なの。戒定恵の三学しかないやろ。仏法は世間の法に隠れてしまう。それが外に現れてきたときには、その人柄というのは、今までキンキンキンキン言っていた人が、言葉が柔らかくなったね、変わったねと周りに言われる姿になり始める。仁義礼智信とは涅槃経によると根本的な戒律なの。これが欠けるといくら法華経をたもっているといっても無意味なの。他人の噂話で悪口を言っている人、軽んじている人、家で喧嘩ばかりしている人、計算ばかりしている人。法華経をたもったときには、(仏法を摂入した)仁義礼智信を守って行けと大聖人は仰る。

・一切世間の法はことごとく法華経より出ているのだから、何か問題があれば法華経を開けば対処する方法が出ている。日常の生活を続けていく上において大事なことが説かれている。

・寺報にあった「本有の尊形」。私たちが南無妙法蓮華経と題目をあげる限りにおいては本有の尊形にならなければならない。それは何かというと過去現在未来と滅しないもの。私たちの仏性の話。南無妙法蓮華経と題目をあげることによって仏性がキラキラと光らなければならない。題目をあげても地獄界が出てくるようであれば、地を掘っているようなもの。困った困ったと言いながら才覚できる間はいいが、何もできなくなったらどうする。お手上げになる。南無妙法蓮華経を頼りにしてこうなった時は本有の尊形なの。いいですか。どこが違うのか。御本尊、妙法蓮華経を背景にしてお手上げして御覧なさい。一つも怖いものなしになるから。「もう何もやることはないですけど、私は素晴らしい信心をしています。今はお手上げ状態ですが、それはやり方がまずかった。本来はこんなものじゃないんですけどね」と言葉には出んけども生き生きとしている。ところが地獄で落ち込んでお手上げしている場合は、まっくろけのけで精気も何もない顔をしている。同じお手上げでもえらい違いなんだ。餓鬼はどうか。デパートへ行きたがる。あれが欲しいこれが欲しいと言い、自分が満足することを知らない。他人が持っている物をうらやましがったり、無理して買っても文句たらたらで品物に対する喜びがない。ところが本有の尊形の餓鬼になると、どういう物を買うてもどこへ行っても妙法蓮華経の御采配によってこうやってやらさせていただけるんだな。ありがたいことよねと遊び放題よ。(笑)昨日は佐田岬へ行っちょったが。灯台まで。楽しうてたまらんが。仕事は仕事で一生懸命やる。妙法蓮華経をたもっているから遊べれるということに喜びを感じれるが。このように仏性が出ている人は何をやっても光っている。陰気なものが何もない。本有の尊形とは肉体が滅してもその生命は続くわけで、次回生まれてくることがあるかどうか分からない(あると言われている)が、生命そのものに福運果報をつけておくとそれをぶら下げて生まれてくる。どうして自分はいいことばかり続くんだろうかなという人は、過去においてやってきている。また、そういう人と付き合う人も得をしていく。その人を善知識という。果報がない人と付き合うと自分の果報を取られていく。今年を楽しい年にしようと思えば善知識をいつも求めていなければならない。一人では信心ができない。​

・大聖人様は立正安国論に「徴(しるし)前に顕れ災い後に致る」といわれているが、その徴って何?法の誹謗だろう。今はもうすでに徴が現れてるろう。人心の悪化だろう。若いし(若い人)がきれいな車に乗ってる。スーパーにいてもいい車が入ってくる。誰だろうとみていると若いし(人)。ところが降りてくる人の顔を見ると、若いしじゃなくても怒ったような顔をしている。ヒスっているような。ひきつった顔をして。女の人じゃってそうやないか。ええもんに乗っていても、もう修羅の相というか、貧相な命というか。自動車自体が泣いとるわ。これ徴やろ。日本の国が衰滅(すいめつ)していく。これはやがて災いが来るわい。天変地異。起きてくるのは。そう思うとって間違いない。他国侵逼。そういうものは来やせん。地震だろう。多分において。ともかく何ともならんようになりゃしないかね日本の国が。そうかといって局部的な話だからね。まあ、先のことを言ってたらオカルトになってしまう。浅井昭衛氏のようになってしまう。まして仏法というものは人を呪うものじゃないから。それをしなかったからといって日本の国が滅茶苦茶になる。そんなことを言ってたら笑いもんじゃろ。そんなオカルトじゃないから。仏法というものは生命の働きを教えてくれてるんだから。それを持(たも)って自分がキチっとやっていかな。災いが来たといって、それはやっていかない人のありようにあるんだ。これは正しいといわれていることをしないのであれば、その反対の現証が現れる。それは当たり前のこと。それをみんな罰と言っている。それはあながちに天に何かがあって災いをもたらしてくる。そうとっておるのがオカルトなのよ。今の日蓮正宗は全部これをやっている。だから仮に僕が死ぬるときは必ず(家族に)言うの。日蓮正宗は入っちゃいかんぞ。決して日蓮正宗と名の付くものをしちゃいかんぞ。それはもうオカルトだから。しかし、大聖人様の正しい教えは必ずあるはず。日蓮正宗という名はつかなくてもどこかにある。それを選んでやれと言って。円満な信心だから。功徳も出る。円満でなければ功徳は出ないということを頭に置いちょってよ。拝んだら出るじゃないんだぜ。円満でなければ功徳は出てきませんぜ。これは創価学会でも言ってる。功徳は天上界におらなかったら出んよと言ってるんだから。戸田城聖氏の時分から言われている。天上界って喜びなんだよ。これは本当の教えなんだよ。大聖人の。喜びがあって初めて功徳が出ている。喜びがないと功徳は出ないよ。まあ、これはオカルトのついでの話やけれど。

・頭がええ、賢い、記憶力がある、行動力がある、社会的地位がある。そんなものは問題にならん。問題になるのは、その本人にそのチャンスの時にチャンスを握るだけの果報を持っているか持っていないかが問題。これが境地の二法。大聖人がおっしゃる仏の智慧。これが分からん人は、自分の知恵を振りかざして、信心がなんな信心がなんなとバカげたことを言ってる。そうじゃない。信心とは、いかようにしたならば大宇宙法界の法則に準じて行動ができるかを教えているのが信心。(家や名前を知らない人に会いに行った時の話。顔は知ってる。出発時間が遅れたり工事中の旧道をやっと抜けて住宅地に出たところで道端で大根を洗ってるおばさんがいた。そこで車を止めた。その人がそうだったという話。おばさんは、いま山から帰ってきて大根の土を落としていたところと言ったそうな)

・刹那に決まっているんですね。その一刹那に物事が決まっているわけ。その刹那のときに南無妙法蓮華経と、こういけれるのか。刹那のときに困ったーと、やってしまうのか。刹那のときにどうしようと、その時に御本尊だと。こう刹那に決まった人は打つ手が全部違(ちご)うてくる。打つ手が全部違う。だからあなた方にはあんまり言うてないけど、高知の人はみんな知ってるよ。車でもなんでもガシャンとやったら、南無妙法蓮華経といくんだぜと。ところがみんなガシャンとやったらどこが傷んだ、誰がやった、どういうふうに言うたらええろう。計算ばっかし。そうじゃないんだ。ガシャンとやった時、南無妙法蓮華経だといくんだよ。あとは相手任せ。相手任せで相手の言うようにやっとったらうまい具合にいくんだ。何でもが。それを知っとらないかん。これは刹那の話だ。だから刹那成道ってそういうことなんだ。そういうことを心得てほしい。

・大聖人様を、妙法蓮華経を信じていたら何でも解決するのか。それでは抜けているものがある。南無妙法蓮華経を信じることによって知恵が湧いてくるんだよ。これを法報応の三身如来という。法身、報身、応身。生命、体、振る舞い。この三つなんだ。特に私たちは応身が大事なんだ。応身というのは、その人の振る舞いなんだよ。だから南無妙法蓮華経と題目をあげるのなら。本当に御本尊様が信じられれば信じられるほどに、その人の振る舞いがどうなっているかが問題なの。だからあらゆる経文にそう説かれていると大聖人様は仰っている。まず南無妙法蓮華経と題目をあげることによって何を感ずるか。生きている自分に喜びがなけりゃいかん。どんなことであろうと生きていけれる自分に喜びがある。そしてまたそれに付随して言えることは、如何様なものであっても自分の口に入るということぐらい有り難い話はない。それはなぜかというと、白米であろうが何であろうがそれを食べることによって血となり肉となって命を支えているんだよ。この命というのは亡くなったが最後、いつ地上に生まれてくるかそれは言えないんだよ。だから大聖人様は惜しい命であると仰るんだ。惜しい命なんだ。命があるから喋れる。命があるから物が見えてる。しかし命、亡くなってしまってはただ法身だけになる。生命だけになった時にはどうなるか分からんろう。お互いに。だから南無妙法蓮華経と題目をあげる、ということは命そのもののことを論じている。まずここから考えてみないかん。そうしたならば仏っていうのは何かというたら大慈大悲。これを如来という。如来とは大慈大悲。大慈大悲とは抜苦与楽。苦を抜き楽を与える。そういう振る舞いが果たして僕たちはできてるかできてないか。そういうものの延長線に自分の仕事の云々もある。だから仕事においても自分が感謝をしてやっとるのか。嫌な人に会(お)うても、そこに世話になっとると思うたときには自分がどういうふうに反応をおこしておるのか。ひとつひとつ振り返ってみないかんろう。難しいことやろうけど。しかしそこはさっきも言ったように言語道断・心行所滅。我々には分からん。分からんかったならばどうする。やるべきことはやった。あとは大聖人様の御計らいを待とう。南無妙法蓮華経と。そこに自分自体が信じ切れて、大聖人様の妙法蓮華経の計らいというものがあった時に、その間際において法身如来という一つの姿が出てくる。信じ切れているから。疑いがないから。傍(はた)から見たときには、あの人は仏様じゃなかろうかなという振る舞いが始まる。何一つ怖(お)じるものがない。今まさに息を引き取ろうとするような状況においても平気の平左でおれるなあと。大変なことなのになんでなんだろうねえ。言葉ではもう言えない。我々が何でと考えても判断のしようがない。そういう姿を現す。現証。これが妙法蓮華経の功徳だよな。だから御本尊を信じた。南無妙法蓮華経を信じたけども。その信じた中で自分が何を考えておるのか。信じておりますから儲けることを考えております。だったならば、それは餓鬼道で大聖人様とは関係ない。そうではなしに妙法蓮華経が信じれたならば自分は素晴らし生命、仏の命に変わってみようと、努力をしながら一つのことにぶつかっていく。そうすると自分の生まれながらにして持っている福運果報というものが出始めてくる。

・今の日蓮正宗の在り方とは全く違うんだ。当時の僕らの信心のありようは。昭和17、8年ごろの話だけども。富士大石寺の御宝蔵に参詣したことがある。戒壇堂に。戒壇の大御本尊に御目通りした。その時の猊下様が日恭上人様なんだ。日恭上人が導師してくださって。その時、この御本尊を信じる限り、いかなる事態に臨むとも必ず生きて日本の土を踏みますと日恭上人がおっしゃった。信心強盛なるによってここに武運長久の御祈念をして重ねて大聖人の御加護があることを強く御祈念申し上げます。

まだ、付け足しがあるの。ふつうは戒壇様にお目にかかることはまずないとおっしゃった。なぜかというと秘密の法なんだ。お目にかかるもんじゃない。ここ(己心)の話だから。なんぼ信心強盛であっても。ただ、それでは無慈悲なというわけで、生きるか死ぬかというときとか、その人の信心を愛でて御目通りさすというのが戒壇様に御目通りする理由なの。今は反対なの。創価学会の宣伝のありようそのままで、御目通りしないと功徳がないと、こういうやり方をやっている。そうじゃないの。だからね、難しいことは何ちゃないが。ただ御本尊を信じておれ。それだけやったが。

・私はねえ。中国共産党の軍隊、前身は八路軍。八路軍に拉致されかかった時にバンドに手を入れられて引っ張られた。引っ張る連中はもちろん銃を持ってる。引っ張られて5、6歩、歩いたかな。向こうから一人兵隊が走ってきて、何やら僕を押さえているのとワアワア話してるの。すると手をパッと離して向こうへ行ってしまったが。その間に自分は走って逃げてきたわけ。いま考えてみると、向こうから走ってきたのが諸天の働きをしてるの。もしこれが来てなかったら拉致されてるろう。不思議としか言いようがない僕には。略奪におうたことも書いてある。徐州の列車事故のことも書いてある。全然知らん人から5万の金をもらったことも書いてある。そうやって天津まで食いつないだこと。拳銃を頭に突き付けられて強奪された時も何のきょうかん(叫喚?感興?)もわかなかった。平気でおられた。御信心というのはそんなもんじゃないかな。自分には分からんけどもいつのまにか命に染んでる。いまもそういうものが僕にはある。

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ある講員の初代講頭評です。

「竹を割ったような性格が信心を活かす。さっぱりと生きていくことです。」

「『名聞名利は今生の飾り』と大聖人はおっしゃっています。ですから地位や名誉、財産はいらない。」

その言葉どおり、何の執着も持たず、さっぱりと悠々とされていました。

十代のころに入信され、戦争、従軍中の生命に関わる危機、生活や信仰を続けてきた中での苦難を信心で乗り越えられたという数々の体験をお持ちで、信心一筋、妙法蓮華経を信じて疑わないという強い信念をお持ちの方でした。

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