日蓮大聖人の仏法を考える
Sunday, March 2, 2025
好きな御書
ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すは・なに事ぞと委細にかんがへて候へば・観心の法門なり、観心の法門と申すは・なに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が・身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。
志とは観心の法門、観心の法門とはたったひとつしかない食べ物を仏に供養すること、その人の行動がその人の心の中にある志を知らしめているということでしょうか。
爾前の経の心心は、心より万法を生ず、譬へば心は大地のごとし・草木は万法のごとしと申す、法華経はしからず・心すなはち大地・大地則草木なり、爾前の経経の心は心のすむは月のごとし・心のきよきは花のごとし、法華経はしからず・月こそ心よ・花こそ心よと申す法門なり。
此れをもつてしろしめせ、白米は白米にはあらず・すなはち命なり。
自分という存在は環境から独立したものではなく一体不二ということでしょうか。
ぜひ全文を御拝読して味わってみてください。
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寺報1992年7月号
私達は、物事を常に、自他彼此の心で対立的にとらえがちであります。
昔の話につぼの水の話があります。
ある人が、一生懸命、自分のつぼに水を入れようとしていた。ところが水が入れば、だんだんにつぼが重くなり、ついには泉の中につぼを落して割ってしまった。
このような話であります。自分のものに自分のものにとする思いにとらわれた時、その心の迷いが、重みとなって、このような姿になります。これに対して、大聖人は、「水の中に、わが身をおいてごらん」と説かれたのであります。自分のものにしようとしているから「修羅の道」におもむくのであって、「わが身を水の中に入れれば、水はその水の上に、わが身はうかべてくれるよ」とおっしゃるのであります。
すなわち、「修羅」とは、人間が自分を中心にして展開させている世界であります。その自分ひとりという殻を打破って、他の人間を思い、さらに数限りない多くの衆生の中に心をいだそうとする道が「仏道」であります。~中略~
私達は、大聖人のおおせの如くに、「月こそ心よ、花こそ心よ」と、また、「自他彼此の心なく、水魚の思いをなして」万法に生かされる心を取りもどし、我人生を大切に歩みたいものと思います。