信仰とはいったい何だろうか
- kisuke1965
- 1月4日
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2006年1月19日 初代講頭座談会より
恐ろしいもんでね。国会喚問のねえ、態度見よってね。学会員と違う、これっちうてね。学会員やった。金剛会の連中なの。金剛会はやめて、名前変えちゅうの。池田大作さんとああいう連中と問答(対談?)もの、持っちうの。ああいうの、ほら、儲かるために。。裏でガチャガチャやってるのは学会、公明党なの。だから小泉さんにしても他の連中にしても。。これも時のしからしむるとこじゃろうね。宗教というものが誤ってきたならば、人間が歪になるわね。不思議なもんでね。宗教そのものの原理が排他的な生き方をしてらあね。宗教によって人が狭量、狭っ苦しい了見にならあね。それが今日本にはっきり出てきたよね。恐ろしいぞね。だから、なんのために信心をしてるんかいなって感じるけどね。
あの人達は、でもお金儲けですよね。あれ見たらねえ。
全部そうよ。宗教っていうのは金儲けのための宗教でね。そこに教祖さんがおって、その通りにしなかったならば、言葉を変えていうなれば罰が出ますよと。その通りしたならば功徳が出てきてお金儲けができますよと。だから今度病気すると教祖さんの言うたことに反したからこんななったと。ところが創価学会にしても他の宗教にしても外面はある程度柔和な姿を見せる。柔和かなと思とると、そうにあらずして内面はギスギスしたどす黒いものを持っちょる。そういうものがある。なんの信心をしてるんかいなと思わされらいね。そうすると信仰とは何だろうかと思うてくる。お互いに信心しとると。大聖人がおっしゃるように、軽善、憎善、嫉善。軽んずるな、恨みを持ってはダメですよ。憎んではいけませんよ。怨嫉のね。天台の止観にでてきますけど。憤怒、怒り狂う。自分自体が顔をしかめて、顰蹙、自分はイカン自分はイカンと思ってる。こういう気持ち。そういうものが私達の生活にあったならば幸せになりませんよと。きびしく戒められてる。
大聖人様がおっしゃるように僕達自身が御信心をしてる目的はなんなのか。目的があやふやな信心をしてはいかん。目的を第一番にはっきりさせとかないかん。大聖人様は御義口伝の中で功徳とは自分自体が変わることだとおっしゃってる。だから六根清浄を功徳という。みんなそれがわからなくて功徳とは儲かることだと思っている。大作さんに言わせたら功徳がキラキラ飛んでくるという話になる。住職からかいよるけど。そうなってくる。人間そのものの云々、関係ない。ところが南無妙法蓮華経をたもっていくうえにおいて大事なことは、防非止悪。戒壇の建立。戒定恵の三学ってねえ。難しい言葉だけども。これが伏せられてしもうて。戒壇建立、三大秘法という言葉に改められてる。しかし実際は戒定恵の三学が本物なの。戒定恵の三学。これがわかってないから信心しながら歪になっていく。人間が。だから信心していない人を見たらば悪魔、外道のように口でペラペラしゃべってる。自分はあたかも天下を取ったような気分になってる。自分たち自体がおらなかったら幸せじゃないという錯覚を起こすんじゃなかろうか。そういうふうな信心を誤って教えられてきてる。それがまた本当らしく取られてる。しかし大聖人がおっしゃるように功徳とは六根清浄を功徳という。自分自体が変わらなかったらなんにもならん。
事業をしている人の話をしよう。順調にいこうと思ってやってると思う。ところがそうはいかん。その人の運営方法にもよるろう。手腕ですね。手腕はその人の性格的な問題から起きてくるろう。恐怖驚異?という天台の止観にでてきますけども。恐れ。怖がってる人。果たして順調に行くろうかね。行くはずないわね。怖がってるから。怖がりは何が来るかというたら、時期逡巡いうて、二の足を踏む。よう手を打てない。折角の機会を逃してしまう。欲の皮が突っ張ってる連中はちゃんと手を打ってくる。ポケッとしてる人は手が打てない。事業をやっていく上で大事なことは目先が見える人じゃなけりゃいかん。すぐに手が打てれる人じゃなきゃいかん。でなかったら事業は成功せん。必ず失敗する。失敗をしたときに自分のちっぽけな命によってクシャクシャ思うてる人はどんな反応が出てくる。失敗したことによって。
落ち込む。
落ち込むろう。落ち込むよ。どうしようどうしよう。困った困った。病気でもそうよ。医者がこう言いました。どうしましょう。こうなるのよ。医者に死にますよと言われて助かった人いくらでもおるやん。それは全部自分の反応にある。そうすると大聖人様が自分の性格を変えていくと仰ってる。功徳というのは六根清浄を功徳という。正直にモノが見える人じゃなけりゃいかん。だから金儲けの信心するんやったらオカルト行ったらええ。大聖人はそんなこと教えておらんから。大聖人様は病気であろうが、金欠病であろうが、事業がウマいぐあいにいかないことであろうが、なんであろうが対処できること教えてくださってるから。それは自分自体がどういう反応を起こすかにある。その反応の起こし方にある。いいかね。これ天台の摩訶止観から話をしてる。それを自分がどう捉えたかっちうこと。悪いと捉えたならば失敗がある。みんな悪いと捉える。なんでも。病気した。悪い。ね。その病気を良かったと捉える人は成功する。この病気によって何がわかるのか。自分の欠点がわかる。そして病気になった原因がわかる。そのときにマイナスというものは大きく功徳に変わる。負というものが変わってしまう。ガックリ。これを変毒為薬という。いま変毒為薬の話をしよるんで。わかりやすく。だからその人がどう対処したかで決まってくる。いかんとなった時にしまったと思うのは当たり前の話。その時にどうしようどうしようと引っ張っていく人は重荷になる。立ち直りが難しい。けども「はねくりかえった」ときに、しまった、原因はどこにあった。これに対処する自分に変わらなかったら、変わっていこうと、こうなった時には、おんなしような現象を持ちながら手の打ち方が変わってくる。変毒為薬とはこういう姿を現すんで。だからどんなもんであっても、良かれと思える生き方がとれる人か。大聖人様が仰ってるように、平左衛門こそ善知識よ。こういうことだろ。善知識にするか悪知識にするかはその本人の反応なの。
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