日蓮大聖人の仏法を考える
Sunday, March 2, 2025
熱原の法華講衆
寺報を読み返したり座談会を聞き直したりしていたところ、どうも成仏するためには熱原の法華講衆になる必要があるのではと思いました。
もちろん首を切られろと言っているわけではありません。
以前にも書きましたが、結果的に首を切られなかった者は安堵したかもしれないし、首を切られることになった者は絶望したかもしれません。
しかし、捕まって鎌倉へ連行されたときは、みな同じ立場です。寺報には、彼らは下人だったから死罪は必定とあります。
そんな中で信じるのはもう、南無妙法蓮華経しかないわけです。「彼等御勘気を蒙るの時・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え奉ると云云」。
地位や名誉、会社や権力、金が人をおかしくするのかもしれません。それらを脱ぎ捨てたところで、南無妙法蓮華経と、一筋にいかなければ成道を遂げることは不可能なのかもしれないなあと。
そうそう。
首を切られた人達は信心が薄かったのでしょうか。間違っていたのでしょうか。首を切られなかった人達は守られた、功徳があったと。。
諸団体の主張でそのようなものは目にしたことはありませんが、御利益信仰好きにしては、おかしなことだと思います。
----------
寺報には、南無妙法蓮華経とは、「すべての存在は仏のように尊い、そう心にかたく信じ、口にも出していく。」とあります。
----------
初代講頭の座談会では。不自惜身命とは、決して自分を捨てるという意味合いではない。南無妙法蓮華経こそが真の自我なんだから、自分が自分がという思いを捨てて、どこまで南無妙法蓮華経を大事に思えるか、正法に我が身を任せていくことができるかという信心の姿勢であって、御本尊に一切をお任せしました、お手上げになりました、という状態が不自惜身命の信心。
----------
一方で大聖人は、所領が戻ってきた四條金吾殿に対して「かかるうれしき事候はず、〜中略〜欲をもはなれずして仏になり候いける道の候いけるぞ。」(法華ごころP97)と仰っていますが、四條金吾殿は所領没収という(想像ですが)地位も名誉も財産も失う状況に追い込まれていたわけです。