日蓮大聖人の仏法を考える
Sunday, March 2, 2025
自分というものの立ち位置
自分は顕正会経由なので、日蓮正宗は正しいと刷り込まれている。他の宗教団体へ行こうとは思わない。
しかしもし、別の宗教団体に入っていたらどうなっているか。何の疑問も持たずに信心しているのか。こういうサイトを作るくらいだからひねくれているので、やはりあれやこれや考えているのか。
考えるといっても、御書を研究したり関連書を読みまくっているわけでもない。自分に都合のいいように考えているだけだ。
川澄勲氏は、大石寺法門で「戒定恵や己心、仏法を求めるためにはまず儒内外を習学すべしとは宗祖の指示である。儒内の原典だけで既に一万巻である。全部でどれ程の数になるのであろう。委員会でどれだけ研鑽の実をあげているのであろう。是非伺いたい処である。外典三千余巻、これを三回よめば万巻である。その上で御書を繙(ひもと)くのが順序のように思われる。これは開目抄に入る前の作業である。百間随筆では外典に入れるわけにはゆかないことを知ってもらいたい。委員全員で三十巻も読んでいることもあるまい。三巻も怪しいかもしれない。これでは千分の一である。外典の一巻も繙かないで仏法が語れるのであろうか、何とも不可解である。「習学すべし」を習学する必要はないと読みとっているのであろうか。そのような中で仏法の意義は日一日と薄れていっているようである」と述べている。
至極当然のような気もする。でも開目抄に、「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり、又習学すべき物三あり、所謂儒外内これなり」の御文に続いて儒家、月氏の外道、大覚世尊の説明があるので、これを読んで習学終了とさせてもらいたいなあと思うばかり。。
所詮、物事の道理、勝劣は人それぞれが経験から判断してるんじゃないか。御書と拝する人もいれば偽書と採らない人もいる。未知なことは判断材料に使えない。知ればそこから新しい判断もできる。そうやって、その時その時の自分が判断する。だから、昔と今の自分で判断が異なることもある。
依法不依人といっても迷いの凡夫がどうやってこれが正しい法だと分かるのか。大石寺でも創価学会でも依法不依人は使っているだろう。大石寺で依法不依人と思っていた人が、今は創価学会で依法不依人と思っているかもしれない。(組織は法じゃないけどね)
日蓮正宗と不受不施派は何が違うのか。とか。考え出したら夜も眠れない。眠れないのはイヤなので考えない。考えないのはマズいので、ぐっすり眠れる程度に考える。これが健康の秘訣ではないか。
とまあ、これが今の自分の立ち位置かな。