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広宣流布とは

広宣流布は人数ですか?

広布達成とか。。

ただいま広布達成率0.01%とか。(泣)

阡陌陟記P25(川澄勲氏の著作。リンク先参照)

また久成の定恵出現して、幾百年後に至って始めて戒壇が建立されるという考え方がある。これもまた完全に流転門の戒壇であって、三秘同時の建立を唱える還滅門の領域ではない。そしてこの戒壇建立に引き続いて、いつとも知れぬ広宣流布を目ざして長い年月を送ってゆく時、果して一人残らず信仰するという広宣流布の時があるであろうか。勿論宗旨は還滅門に於ける己心の広宣流布を本義とするとしても、宗教分としての一人一人の弘通を否定するのではない。けれども宗旨を忘れ、宗教分のみの広宣流布を追求するとすれば本末転倒といわねばならない。要するに問題は滅後末法の真実、即ち宗旨分の広宣流布がどこまで把握されているかという事である。

~中略~

​さて広宣流布といえば、昔は正月十六日と盆の十六日の地獄の窯の蓋の開く日を広宣流布の日と定めて、一人残らずという広宣流布を祝福していた。正月には富士宮から万歳が来て不開門の前で広宣流布を祝い、次に二天門の左裏で、御宝蔵に向かって一回、同じく丑寅(御先師の墓)に向かって一回、都合三回祝福をしていたようである。

以下、池田令道氏の著作「富士門流の信仰と化儀 日有上人聞書を拝して」のまえがきより引用します。

「堂舎僧坊ハ仏法ニ非ズ、又智慧才覚モ仏法ニ非ズ、多人数モ仏法ニ非ズ。堂塔ガ仏法ナラハ三井寺・山門等仏法タルヘシ、又多人数仏法ナラハ市町皆仏法ナルヘシ、智慧才覚カ仏法ナラハ天台宗等ニ若干ノ智者アリ是レ又仏法ニ非ル也。仍信心無二ニシテ筋目ヲ違ヘズ仏法修行スルヲ仏道修行広宣流布トハ云フ也」

創価学会の伸張期の昭和40年に出家し、最盛期(昭和47年の正本堂建立の頃)に学生であった私にとって、創価学会が主張した「舎衛の三億」論や「広宣流布=事の戒壇=正本堂」の図式と、日有上人のこの仰せは何処をどう結べば矛盾なく一本の線となるか、不思議でなりませんでした。

日有上人は「堂舎僧坊」の象徴のような正本堂や「多人数」の見本のような舎衛の三億論を「仏法に非ず」と否定されているし、〈富士の立義〉は日蓮正宗や創価学会の異常なまでの経済的発展や驕った繁栄をはっきりと拒絶している。この仰せを拝して、そんな思いに強く駆られました。それ以後、事ある毎に日有上人の聞書を拝して、宗門・学会の信仰のあり方や教義理解の誤りを見いだしては、現今の混迷の深さを思い知らされるのでした。そして考えがまとまるにつれて、様々な法門上の誤りは近年の宗門・学会の歪んだ広宣流布観から派生していると確信するようになりました。本尊観、成仏観、修行観など、いずれも富士門流では逆縁の衆生に根本を置いていたものが順縁の広宣流布に限られてしまったために悉く変質してしまったのです。

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今の考えは、以下のとおり。

地獄に落ちている人がいれば救っていく。地獄の世界へ行っちゃってたら救えないけど。。隣りにいるんです。日常生活で地獄に落ちているから救うことができる。共に生きていこうとする。そういう思いになることがまず自分の広宣流布。そして、そういう思いの人が増えていくのがまた広宣流布です。

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顕正会のいう広宣流布は、国会の議決等で国立戒壇という建物を建設したときなんでしょうが。そもそも戒壇というものが今無かったら、二大秘法になっちゃうけど。。戒壇の大御本尊も戒壇がないとどこに収まっていいやらウロウロしてるかもしれない​。

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​ 建立

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