日蓮大聖人の仏法を考える
Sunday, March 2, 2025
法門問答
「川澄勲法門研究会補考」サイトに「問答」が掲載されていますが、探しにくいので勝手ながら掲載します。少々、当方で添削しています。原文はリンク先を参照してください。
日蓮大聖人の教えは思想に近いように思えますが、宗教として残したのはなぜですか
宗教も思想も見方によっては同じものではないでしょうか。
どんな宗教でも必ず本仏が掲示されますが、それは多くの場合、信仰の対象であると同時に思想的な側面を備えているものです。何の理由もなしに本仏の掲示が行われることはありません。本仏に託して思想的表示をしているわけです。本仏が何を教えているのかよく理解する必要があります。実態のない本仏や神を掲げているものは宗教とは呼べないと思います。
大聖人は自らは一宗一派の祖ではないといって一派を構えることはしませんでした。大聖人の考えは一宗一派に偏するものではなかったからです。今のような形になったのは宗祖に対する後の弟子の報恩・感謝の気持ちによるものではないでしょうか。
それはまた、宗教の力を借りて信頼というものをさらに深く価値あるものに昇華させていくということもあったのではないでしょうか。
宗旨分と宗教分ということについて教えてください
宗旨分とは、その宗派の主要な趣旨のことで、思想的な部分をいいます。
宗教分とは、その宗旨を受けて宗教としての形の部分を指していいます。
大石寺の宗旨は、魂魄の上に信頼が説かれていることです。しかも民衆はこの信頼の玉を受持によって既に持っているとし、釈迦のいう修行は満ちているとしています。
修行が満ちていれば当然、この世に一人の落後者もなく、死後に地獄もありません。
宗教分はその趣旨を伝えるために用意されたものです。本尊、題目、客殿、御影堂、丑寅勤行、観念文などで宗教としての形を整えていきます。
その一つひとつを探ればそこに宗旨を鮮明にすることができます。
信頼を見つけられるようになっています。
図現・顕現された本尊は日蓮の魂といわれますが、何を意味していますか。また、お題目は何を意味していますか
日蓮の魂とは信頼のことです。本尊も題目もまた同じく信頼を意味します。
今の宗門や正信会・創価学会では日蓮の魂というと日蓮の生命と考えているようですが、これはかなり無理があると思います。生きている人間の生命を一幅の紙に収納させることはできません。
大聖人の法門はすべて師弟子の法門の上に考えられていますから、この本尊も魂魄の上に考えなくてはなりません。魂魄の上に説かれた本尊ですから当然、仏教の本尊とは違ってきます。一口にいうなら信頼ということです。一幅の曼荼羅のなかで上行菩薩と不軽菩薩が師弟子をただして信頼を示しているわけです。また沢山の神や菩薩、民衆が共に譲りあって信頼を成就しているともいえます。御本尊のことを功徳聚などとよぶことがありますが、これも本尊の信頼の力をそう呼んだものです。題目も同じ意味です。
仏教と仏法は同じものだと思ってきたのですが、違うと聞きました。どのような違いがあるのですか
仏教といってもその種類は非常に多いのですが、一言でいうなら釈迦の教えということです。また、釈迦の教えの流れをくむものの全部の総称でもあります。
仏教も仏法も生老病死・愛別離苦という人生の苦しみをいかに乗り越えるかという共通の目的を持っていますが、その方法が大きく違っています。仏教では先ず修行を積んで悟った者(釈迦)が、その方法を人々に示して、民衆はその教えられた修行を積み重ねることによって救われるとします。教による救済です。これに対して仏法では法による救済を説きます。法というのは民衆一人ひとりが本来備えている信頼のことで、この民衆所持の信頼で民衆を救おうとしたのが仏法です。本仏・本尊・戒壇・題目など仏教と同じ言葉を使っても仏法では解釈に大きな違いがあります。仏教との混乱に注意しなければなりません。
受持という言葉がよく使われますが、どういう意味ですか
五種の妙行の一つで受持・読・誦・解説・書写の一つです。受持という意味は堅く信をたもつということです。仏教ではこの五種類を一つひとつ修行することで悟りを開いていくことができるとされています。一方、仏法では初めの受持の中に後の四つも含まれるとし、しかもそれらの修行はすでに完了ずみで、はじめから民衆の魂魄の上に受持されているとしています。積み重ねた修行の結果、成道するのではなく初めから受持により成道ずみだとしているのです。この受持は魂魄の上に考えられることで時間を超過したところで考えられています。この魂魄の上に受持することによって釈尊すべての教えを完了しており、もはや釈尊と同等の境地であり、釈尊の説く修行の必要のないことを意味しています。
信、不信に関係なく、すでに修行も満ちた民衆に来世の地獄はあろうはずがありません。しかもこの受持は同時に世間の信頼の受持も含まれています。
一言摂尽の題目について教えてください
大聖人が説いた題目のことです。魂魄の上に考えられている題目です。信頼を確認してから感謝の上に唱える題目のことです。
題目というのは教えのすべてを一字におさめたものです。
教えのすべてが一言に凝縮されているといっても過言ではありません。
大聖人の題目は妙法蓮華経と南無妙法蓮華経の二つの題目を重ねて同時に唱えています。
五字七字の妙法です。五字七字で互いに切磋琢磨し師弟子の法門を成じています。この師弟子の法門の上に成じたものが、世間でいえば信頼というものです。題目はこの信頼を教えるための表示です。この信頼を確認したうえで唱える題目を一言摂尽の題目といい、一回唱えるも、千回唱えるも同じことです。ともに信頼の上に感謝の気持ちを持って唱える題目です。数は関係ありません。
千遍万遍の題目を神経を集中して一回にまとめて唱えようということではありません。
事行の法門とはどういうことをいうのですか。また、山法山規と同じですか
事に対して理という言葉がありますが、理とは悟りのことです。釈迦仏教では民衆はまだ悟りを開いていないため、理を中心に考えます。しかし、大石寺では民衆はすでに受持によって成道済みと考えていますから悟りはすでに手中にあり、必要なのはその確認方法だと考えます。事行とはその確認方法のことです。戒壇の本尊・御宝蔵・客殿・御影堂・丑寅勤行など山内すべてのものが成道確認のためにもうけられた事行の法門です。またこれらは山法山規ともいわれ文字をつかわず法門を伝えています。いわれを探れば説明は必要ないようになっています。事行の法門も山法山規も同じものです。
いずれも信頼を取り出す手掛かりです。
御本尊は宇宙の生命ではないのですか
本尊の正体は信頼です。生命ではありません。
今の宗門では宇宙の生命と考えているようです。創価学会の生命論も同じ思想です。自分の生命はどこかで宇宙の大霊と結ばれていると考えています。この考えは紀元前四、五世紀のころすでにユダヤ教で考えられていたもので砂漠の遊牧民のなかで生まれたものです。彼ら遊牧民は常に外敵にさらされ、たとえ親、兄弟でも信用できませんでした。そうした不信の人々は強力な一神教のもとに連帯するしかなかったのです。力による支配です。欧米思想の根源のところです。生命論は不安と不信に基礎を置く欧米思想そのものです。これに対し宗祖は信頼を説いて対抗しているのです。
塔婆供養は法門と違うのですか
違います。
塔婆供養は宗祖の法門ではありません。
辞典によると、卒塔婆供養というのが正しいようです。本来は釈迦の遺徳をたたえるために建てたものですが、いつのまにか、死者に対する供養となってきました。
つまり「死んだ家族や友人があの世で救われていないかもしれないから」救ってあげようということなのです。しかし、宗祖の教えではすべての民衆は受持によってすでに成道済みであり、死後、悪道に落ちることはないとしています。塔婆をたてるのは宗祖の説を向こうにまわしてケンカを売るようなものです。昔からずっと大石寺では塔婆をたてませんでした。塔婆をたてるようになったのは法門がかわった証拠です。
死後の堕獄を認めたことになります。
謗法とはどういう行為、考えをいうのですか
信頼を失うことです。
信頼を失う行為のことです。信頼に反する考えのことです。
具体的には色々ありますが、ご自分でもお考えください。
例えば何といっても横綱は信頼の出処である法門の捻じ曲げ。次に、民衆に立ちはだかる、愚痴を言う、努力をしない、独断でする、意地悪をする、相手を認めない、けんかをする、信用しない、放任する、譲りあわない、他人のせいにする。その他いろいろ。
大聖人は死後のことをどのように説いていますか。死後に地獄はあるのですか。来世はあるのですか
もし死後があるとしても、死後に地獄に落ちることはありません。
信、不信にかかわらず、成仏するための修行は受持によって既に完了しています。修行の満ちているものが地獄に落ちるはずがありません。来世があるのか、ないのかということは一切触れられていません。宗祖の教えは、信頼の中に現世の寂光土を感得しようというものです。それよりは、いま、生きていることの重要性に目を向けて、死して後のことは天に任せるしかありません。
御書のなかに多くの偽書があると聞きましたが、どういう御書がありますか。それは何の意図があったのですか
三大秘法抄・御義口伝・法華初心成仏抄・種々御振舞御書・盂蘭盆御書・生死一大事血脈抄・当体義抄・三世諸仏総勘文抄
宗祖の教えはすべて魂魄の上に考えられています。思想とみることもできます。
戒壇も題目も本尊も本来形のないのが信条です。教団をかまえてお金儲けをするには法門をかえなければなりません。そのためつぎつぎと新しい御書がつくられたのです。
ですから真筆でないものを真筆と称してつかっているわけです。