日蓮大聖人の仏法を考える
Sunday, March 2, 2025
バトンリレー
子供が骨折入院しまして、付き添いのとき時間があるなあと思って大石寺法門を持ち込みました。動機としては不純ですが。。
パラパラとしか読めず。眠いし、入れ代わり立ち代わり誰か来る。看護師さんはもちろん、薬の説明、リハビリ、清掃、食事の配膳などなど。病院だけでもこの有様で、日常生活ではまあ無数の人たちの世話になっているんだなと改めて感じた次第。
さて、大石寺法門。「師弟子の法門」とは何だろうと考えた。(リンク先の、富士門流の信仰と化儀(日有上人聞書を拝して)、も読み返していたところだった)
日興上人の佐渡国法華講衆御返事「なおなおこのほうもんは、しでしをただしてほとけになり候。しでしだにもちがひ候へば、おなじほくゑをたもちまいらせて候へども、無間地獄におち候也」
師と弟子です。師から弟子に伝わったものがある、弟子が受け取ったものがあるはずです。そこで思い出すのが大聖人の御文。聖人知三世事「日蓮は是れ法華経の行者なり不軽の跡を紹継するの故に」、乙御前御消息「日蓮が頭には大覚世尊代らせ給いぬ昔と今と一同なり」、偽書だと思っているけど三大秘法禀承事「此三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮慥に自教主大覚世尊口決相承せし也」。
大聖人は、大覚世尊(釈尊でいいのかな)や不軽菩薩などからバトンを受け取ったという認識でしょう。これを師弟子の法門と結びつけていいのか。。
そしてまた、不軽菩薩からバトンを受け取ったからといって、「我深敬汝等」とやるわけではなく「南無妙法蓮華経」です。師弟子の法門をリレーに例えるとバトンパスではないかと。でもって、「第1走者のバトン」は「第2走者のバトン」になり「第3走者のバトン」になる。同じバトンのようだけど持ってる人が違うから変わってる。(ちょっと分かりにくいか。)まあ、100人いたら100通りのバトンがあるということで。
400メートルリレーでいうと、バトンは自分だけのバトン。バトンは替わっていてもいい。というか、持ってる人を含めると違うもの。そして、一人が100メートルを超えて走ってみたり、第3走者なのに第1走者からバトンを受け取ったりすると、違うだろー!となる。
ただまあ、大聖人は釈尊からバトンを受け取ったわけではないでしょう。諫暁八幡抄の最後の部分からすると、大聖人も釈尊も第1走者ではなかろうか。東に向かったものが折り返して西へ向かう。「五五百歳の長き(末法万年のことかな)闇を照す」。教主釈尊から受け取ったものも多ですが、全く新しいものがスタートしたわけです。
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