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言語道断・心行所滅

  • kisuke1965
  • 2021年5月18日
  • 読了時間: 6分

更新日:2021年5月22日

初代講頭座談会 2006年5月16日


信ずるということと不(ぶ)信心ということがある。我々は不信心であってはならない。信じることができないと誹謗に通じている。妙法蓮華経が信じれない人は間違いなく誹謗するよね。一切の人に仏性があるということに気が付かない。あれはあんな人よ、とやっちゃう。あんな人間だから救われないよねと。寛尊はそうではないと。信のない人がそう言ってるんだ。信があったならば、どういう人であっても救われる人なんだ。その人の命の中に仏性があるんだから捨ててはいけませんよと。相手に仏性があると見ることができない人は信のない人。

信ずることに弱さがあると自立ができない。妙法蓮華経が信じれない人にどうして自立ができる?五里霧中の世界におって明日が分からんのに、自分がやっていることさえ自信があるやら(ないやら)分からんのに、なぜ自立ができるが?何か困ったことがあったら、(誰かに)相談しなくちゃ自分自体が落ち着きゃせんじゃないか。ちょっとでも知恵のある人に、体験のある人に聞いて、ああそうかいな、それやったらこうしようかな。あの人はこう言ってくれているからそうしようかなと。自立というものはそんなもんじゃないろう。自分のことにおいても、善悪ともに受けて立っていこうという勇気を持っといて、なおかつそれを自分が消化していこうというものを持っているのが自立なんだろう。それは裏付けとして妙法蓮華経が信じれた者のできることであって、ここ(頭)だけで自立なんかできっこないよ。みんな新聞読んでもニュース聞きよっても自立してるようなことを言ってるけど、みんな悩んでるじゃないの。顔に出てるじゃないの。煩悶懊悩を繰り返しながら口は強言を吐いてる。吐いてるんだけども、その本人自体は、なよなよとした弱いものを隠している。それが歩き方においても何においても出てくるわけなんだ。顔を合わすたびに。自立できてる人は、ひょうひょうとしたものを持っているはずだよ。何も怖いもんがないから。明日死にますよと言われても平気の平左でおれるから。自立ようしてない者は、明日死ぬよと言われたらどうする。困った、困った、困った、困った。自分の寿命は明日一日(あしたいちじつ)しかないが。どうしたらええ、こうしたらええ。この問題がこうなっているがどういうふうなことをしたらええんだ。と、こうなっちゃう。ひと月と言われてもそう。腹が出来てないから。ところが世間のことであっても、自分の病気は治る病気じゃないと。今までこうしてやってこれたのが不思議なんだなと自覚した人は、その時点から自立が始まる。医者の宣告で、あんたはあとひと月しか生けれ(生きられ)ませんよと宣告された人は幸せで。宣告も何ものうて、治るかも分からん治るかも分からんと(医者に)おだてられてやっとるよりか。なぜ?ひと月の間の余裕ができたんだよ。自分のやることが決まったんだよ。片一方はいつ死ぬやら分からん。長生きするかも分からんと。でれでれでれでれとしていくんだよ。

自立するっちゅうことは腹が決まらないとできないんだよ。自立ができない人は自分のことであっても全部人に相談して、人の言葉で自分のことをせないかんなる。自立している人は自分がぶつかってそれがダメであって、痛い目してもトゲがたっても自分でトゲを抜くばあの腹構えで突っかかって道は開くけども。トゲはたてたくないわ、甘い汁は吸いたいわ、うまいようにはいきたいわ、で何が自立できるが?そんなもんで。本当に自立するんやったら妙法蓮華経を信じる以外にない。

よく言われるこれは。あなたの質問は。なぜ(初代講頭は)違うんだろうって。ただこちら側はその自立した道を歩んでいきよるだけの話なんだ。明日が分からんような状況においても妙法蓮華経を疑わないんだよ。こういう問題になってるのに一体どうしたらええろうと。知恵も才覚も何にもないけども妙法蓮華経を疑わないからいつのまにか知恵才覚がちゃんとできてるわけ。そして、こちら側に知恵才覚がない代わりにそれに携わっている人が知恵才覚を出してしもて、結局こちらの考えているとおりのことをやってくれる。あれ不思議なんだ。こういうことがあるんだろうかと思う。思うから今度は御書を引いて、こういうふうな言葉がありゃせんかいなあと調べてみるとちゃんと出てくる。それが。よく人にも注意するわけなんだけど、我々自体に妙法蓮華経の功徳は(どう出るか)分からんぞって。どんな状況になって出てきて、自分たちの常識で判断できん(考えられん)もんになるぞと。これを大聖人様は言語道断という言葉をもって教えて下さっている。言葉は絶えてしまう。なぜ?って言われても言葉の使いようがない。なぜということに対して。そして心行所滅と仰っている。心においての考え方。これだてもう考える方法がない。なぜなんだろう。考える方法はないから結局は不思議だねとたったその一言で終わっちゃう。

しかし実際は、その本人本人の行動があるわけでね。行動があるから結果が出てるんでね。そうすると僕たち自体の「信」のありようってのは、皆は結果を求めた信心をしている。これお釈迦さんの信心だよ。釈迦仏法なんだよ。釈迦仏法だから、三千塵点、五百塵点だとか久遠実成だとかややこしいことばっかし言っとらないかん。歴功修行しとらないかん。あんた罪障が深いからね。いつまでたっても幸せにならんねと言って。けど僕らはそんなこと言うてくる人に対しては注意する。罪障が深い人がなんでこんなすごい信心ができるんだい。おかしいじゃないかって。

私たちは大聖人の仏法をしてるんだ。お釈迦さんの仏法をしてるんじゃないんだ。大聖人の仏法は、受持即観心で本果を求めてるんじゃないんだ。本果を求めるから長い長い間、修行が足らん修行が足らんとみんながやっとらないかん。それと全く違う。大聖人様の仏法は修行道なんだよ。修行以外には何ちゃないんだよ。歴功修行をしとんじゃないんだよ。即座に、この修行をもってやっていく中に即座に開悟して成仏をする。これが即身成仏の姿なんだよ。受持即観心とはそういうことなんだ。持(たも)った自体においてすでに自分の命を見ている。じゃあ自分の命をどう見たか。己心は仏心と異ならずと見た。仏心(ほとけごころ)だ。自分の命は仏なんだ。今の言葉で使うたら、大宇宙法界の命と同し(おんなし)もんだったんだ。そう見たときには自分は即座に開悟してしまって、小ちゃな自分だと思うたら、あにはからんや大きな大きな自分じゃったことに気が付いた。ただ寄ってるものは小っちゃな一つの物体に寄ってるだけなの。この物体を壊してしまったならば、自分の命は大宇宙法界に還っていく。これを本当に知ってしまったならば、これを名付けて成仏というんだ。それを知り抜いたかどうか。それを本当に分かった人には、何らそこには拘束されるものがない。

ただこうやって生きとる限りにおいては、その生きとる場所におけるところの法則があるから、その法則に準じて行動はせないかん。これを国においては国法という。我々自体の間においては道徳といい。それは組織(集団)のある生活におけるところの我々の行動を束縛していくもの。それがなかったらうまい具合いかない。じゃあ、こういうものが果たして宗教の云云にあるか。ある。こういうことが詳しくは開目抄、報恩抄に出てくるわけなんだ。

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注:↑戒定恵の三学のこと。だと思います。。川澄勲氏は「大石寺法門」の戒定恵の項目で、大石寺法門即ち仏法の根源になっているものである。戒定恵を捉えることによって、始めて仏法を称することが出来る。そこで仏法に時が必要なのである。戒定恵は世法の中に、即ち外典の処に仏教を摂入したとき始めて現れるもので、仏教に外典を持ち込んで解するものではない。と説明されています。

 
 
 

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