言葉の恐ろしさ
- kisuke1965
- 2023年6月18日
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初代講頭座談会 2003年6月23日
質問者 臨終正念ってありましたけど、臨終正念ってどういう姿で、信心をしてたら絶対ボケたりするような病気にはならないんでしょうか。
分かりません。信心をしとるからそんなことはありませんちうことはない。なぜかというと、それは荒唐無稽な言葉に変わるかもわかりませんけども、その本人自体が罪障ということを考えてない。自分自体がオギャっと生まれてきて、仮に50歳とすれば、本当に分かってきたのが4歳か5歳と。45年間。どういうふうに自分が歩んできたかと。人を泣かす。あるいは人の面倒を見た。いうところの差し引いたならばどっちが多いか。そういうふうなもんから、自分自体の言葉というものが、どういうふうな不用意なことを言うて相手を困らし、相手の身を切り、そして自分自体を雁字搦めにしておるか。いろんなものがある。罪障には。そういう罪障を積んできて現実に今があるわけ。お互いが。お互いこうやっていろんな姿を見せてるけども。それは罪障。マイナスの罪障を引いて、そして仏道修行をやってる功徳を足して。プラスやって。そしてイコール、今の姿が出てるわけだ。計算したら。そうするとプラスの方の功徳。徳というものが数字が多いのか、それともマイナスの数字が多いのか。によって現実に今が出とるわけだから。代数じゃないけども。まあ計算してみてちょうだいや。(みんな笑)。そこでどういうふうに言われているかと言ったならば、大聖人様のこの功徳の云々において、自分等ごとき罪障の深い者がこのすごい信心をさしていただけると言って喜ぶということが素晴らしい。それは取りも直さず、この御本尊様の功徳をほめたたえている人なの。ところがこれを誤って使ってる人がおるわけなの。どういうふうに使っているか。お互い罪障が深いからねえ、こんなになるの当り前よね。と、こうやっちゃってる。誤ってるの実は。そういう言葉使うのは。確かに誤ってないから。本当のことを言ってるのに変わらん。そんなの当り前。罪障が深い。じゃったら矛盾が起こる。そんなに罪障が深いという人がなんでこの御本尊様を信じれる?この御本尊は福運果報というもんにおいてひとよりかずば抜けてるもんをたもっているんだよ。というふうに言われておる。だから過去において八十万億那由他の仏菩薩を供養したものが今生にこの法華経に御出会いできると言われている。こういうふうにほめたたえられている。実は。これは法師品の中にある。あるいは長劫。長い長い間、この仏を供養してきた功徳によって、今生にこの南無妙法蓮華経をたもつことができる。ゆえにそういう人は三千年に一度花咲く優曇華に例えられる。そういうふうにも言われてる。にもかかわらず自分が今世において苦しい思いをしてるからといって自分が罪障が深いなんて言っても。あまりにもちょっとこれは。。御経文に載ってるのに。そうじゃない。だから今日、こういう話が出ましたから。今日から一つ、どういうふうなことがあっても自分は罪障が深いというふうな言わんように。構えて言わんように。罪障が深いと使う時は、必ず御本尊様の功徳をほめたたえるために使ってちょうだい。自分ら如き罪障の深い者が、こういう素晴らしい信心ができましてと。これやったら話が変わりますから。これ以外には使わんように。罪障が深い、罪障が深い。他の人が言いよっても本門講の人は口にせんようにしてちょうだい。罪障の云々は。信心をしよって亡くなっていくにしても、悪象のために殺されては三趣に至らず、悪友のために殺されては三趣に至る。という御文がある。悪象は象。酔象。蹴とばされて死ぬと。三趣は地獄餓鬼畜生。けども悪友は地獄餓鬼畜生になっちゃう。悪友とは悪知識ということ。悪知識が身を滅ぼすと日有上人がおっしゃってるから。だから信心している私たちは悪知識に親近(しんごん)しない。そういうことをやってると悪知識の虜になっちゃう。いつのまにか大事な妙法蓮華経を軽く考え始める。職場においてもいい加減な人と付き合うといつのまにか職場の批判をしている。自分が。大事な職場におって給料をもらえる、ご飯を食べれる、おいしいものを買える。にもかかわらず職場の悪口(あっく)を言い出す。上司の批判をする。これは何。根本に何がある?悪知識なんだ。そういうことをやると自分自体の福運果報をなくしてしまう。悪知識は自分の身を滅ぼしてしまう。私たちはこういうことをよーく心得て。世間にはこういう人が多いから。
この間も注意した。なんぼ校長から、やいやい言われて。責任を背負わされて。そして古手の教師を裸で引っ張っていかないかん。重大な責任を背負わされた。その人が知恵がほしいと来られた。忠告した。誰っちゃ喜んどらんので。隙があったら足をすくってしまえ。こんな小僧、追い出してしまえ。狙ってるんだぞと。みなは。それに向かって困った困った連発しながら。ベソかきながら。やっとって。ゴマ粒じゃないか。なんでもっと早く来んのか、言うて。結局、悪知識なんだ。教頭先生に言うたらもっと知っとるから、ここの学校では古い先生だから。言うてみたら図に乗っていくわけ。困ったね、言われたら、いや困りました、やるわけなんだ。それ向こうの思うつぼじゃないか。向こうは待ってるんだからそれを。いやー困った。見たように言われてしもうた、言うけども。今からでも遅くない。今日から変わりなさい、いうて。ニコニコ笑って。うるさいですね困りましたね、言われても。はー、何にも知らん者です。それだけでええ。余分なことを言うなちうて。言葉の恐ろしさが分かってない。罪障なんだ。人からざまーみろとやられちゃう。つまらん言葉を吐くことによって。あれはこれだけの考えしかない人だから、あんな者に付き合いよったら自分が困るぞとやられちゃう。なんでもない言葉によって。言葉の怖さはこういうもんがある。だから迂闊なことは言っちゃいかんのだよ。洋の東西を問わない。言葉というものは心の窓。言葉が罪障を積むとはこういうこと。何でもないに変わらんけどもちゃんとやるんだぜ。相手は動くんだぜ。言葉で。今日は暇なね。デパート行こか。電話入れるの。大売出しない?やっちゃう。あの人も行きたいよと思うて。一緒に行くと錯覚を起こしてる。この人。その裏っ側(かわ)に誘われたきに行ってるかもわからないんだ。また違う人と行った時には、あの人はすぐあそこに遊びに行きたがる人ね、と言われちゃう。その人は徳を失っていく。よー、気を付けちょらないかん。
死んだときの姿がどうこうじゃない。大聖人は臨終の後先。それ見てみい。その本人が成道を遂げた姿を見せるか見せないか。水死したけんいうて。たまるもんかという姿を見せるか。ところが水死しとっても全くそういう姿を見せない死に方をする。あるんだよ。これ成仏してるからなんだよ。僕らの眼から見たならむごい死に方する場合がある。成仏するのかせんのかは成道を遂げれなければできませんよ。なんぼ題目で成仏成仏言っても無理だから。その本人の心構えだから。今の日蓮正宗のように物質だけ追いかける乞食信心ではとても成仏できんよ。色心の二法の云々だから。むしろ物質よりか生命の。。。己心の法門と大聖人は仰ってるから。自分の命そのものが柔軟な姿勢でおれれる自分に変わっとらな、ね。顔が引きつっとったらね、なんぼ若いいうてもね、本当年寄りになる。
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