言葉の怖さ
- kisuke1965
- 2021年5月1日
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更新日:2021年5月17日
初代講頭座談会 2002年5月13日
先にも話がありましたけど、言葉は自分の身を亡ぼす。自分にも当てはまるなあ。言わいで(言わないほうが)よかったと思うことが大いにあります。←質問者
そう、ほとんど言わんほうがいい。「辛抱したけれど思い切って言うた。もうスーッとした。」これ怖いんですよね。本当のことであっても、忠告をしたときは、(相手は)素直に受けられない。間違ったことを言っていても、そうかそうかと言われたときは相手はホッとする。ところが単刀直入にパシッと来たならば、相手の顔色は変わる。
2、3日前も経験したんですよね。ある人が御信心に疑問を持ってこられた。私は(その人が)御信心のことを理解していると思って話をした。最初に、私は右もとらんよ左もとらんよ。私は真ん中を行くよ。あくまでも法に基づいた話をしますよと。話は厳しいかもわからんけども、よく感じていただければ味わいのある大聖人様の言葉に変わりますよと、断ったうえで、一時間ほど話をした。ところが最後になってきて、「講頭の話は難しい。そこには情もなければ何もない。ただ、やれやれ、やれやれ。やって良くなるんやったら誰でもやる。うまい具合いかんきい聞いてる。」こういう話になって、私も少しカチンときた。カチンときたけども、これは僕の眼違いだった。(御信心が)分かってなかったんだ。姿はわかっておるような姿を見せておったけれども、まったくわかってなかった。これは厳しいことを言いすぎたなと思うた。すまなかったな。本当に分かってなかったんだなと。私もいらんことを言いすぎたな、と言ったら、いや、分かってます、と反対にこうきた。本当に御本尊様が信じれておるんじゃったならば、そんなにゴタゴタ言うこともあるまい。信じれてないんだからゴタゴタ言うんだから。大聖人の言葉にそれがはっきり出てるから。弱音吐いてグドグド言ってる人は信じれていない人の話であって、信じれている人はいかなることがあっても動じないと、法華三昧の話をした。三昧堂の話と違うじゃないかと言い返されたので、三昧堂とは違うよと、私も少し気色ばんだがね。あなたと話をしても埒が明かんなと帰ってもらったけれど。
あとで考えてみたら、僕の言葉そのものは正しいことを言ってるかしれないけれど、なにか私自体も欠点があったかもわからんな。それはなんだろう。結局は相手を思うてやるちう気持ちが乏しかったんじゃなかろうか。信心の上で迷っているということにおいて、それを求めてきておるということはわかっておったんだけど、私自体が昔流のやり方が出たんじゃなかろうかね。それで、しまったーと思うて後悔したけどね。もうちょっと柔らかく、柔らかい中に厳しさをもって話をしてやるちうことが大事やったけど、まだ僕自体がそこまでできてないんだなと感じたわけだけどね。言葉のありようというか、せっかく訪ねてくれたその人をあたら追い返すことになった。これは法の上の話だ。
ところが世間のありようになったならば。これから半袖着てる人もいれば長袖着てる人もいる。長袖着て汗かいて暑いねえと言ってる人に、何言ってるのあんた、半袖にしなさいやとパッと言っちゃう。ところがその本人さんが、普段からムカムカしているような人だったら、いらんこと言いなやと、こうなる。ただ、言葉の云々じゃないですよ。そこにあるのは。好意を持っている人に言われたときは、ハハハーっと笑って肩をポンポンと叩くろう。同じ言葉でも。これは何かといったら、その本人がどういう命の働きをもちながら言ってるのかということ。どういう命の働きをしながら、そういうことを言ってるのか。
~中略~
本当に妙法蓮華経が信じれたときには、歓喜の中の大歓喜で、困った困ったと言いながらも本当に困った姿を見せないちうのはここなの。その時には、本人さんの口から出てくることは、感謝、喜び。そういうものが口から出てくるはずなの。そういう言葉が自分を守っている。感謝をする。相手さんのことを思っていっつも感謝をしながら、あの人のおかげだって。今日(こんにち)こうやっておられますと。その感謝をする気持ちそのものが自分の福運をこしらえている。福運はどういうところについてるかというならば、その本人自体が生きておるという喜びを持っておるところについておる。何を言っても喜んでおるという人は、人は捨てない。けども何を言うても不足を言うて、何を言うてもケチをつける人がおる。人は取り合わんようになってしまうが。誰が悪い彼が悪いじゃない。その本人が悪い。自分がいらんことを言ってる。経文に、言葉というのは自分の身を亡ぼすだけじゃない。相手の身を切る。相手の身を切りながら自分の身を亡ぼす。あるいは、言葉とは錐のごとし。相手の体を突き刺す。そして我を突く。そしてまた、言葉によって切られたことを相手は生涯忘れることがない。
罪障は言葉によって作られると大聖人はおっしゃっている。罪業というのは自分の言葉なんです。いらんことをペラペラと言うことによって責任を取らにゃいかんやろ。誰もおらんからといって天に向かってペラペラ言ってるのに変わらんろう。天そのものが妙法蓮華経ぞね。全体全部が妙法蓮華経。誰もおらんからといって、ええ気になってペラペラしゃべったことをいつかは自分がかぶらないかんぞね。だから怖いんです。
言葉の怖さというもの。自分をかばおうと思うんだったらともかく言わんこと。これは言うてやりたいと思っても言われんで。それから親子の中には絶対入られんで。あれほど馬鹿を見ることはない。
ともかく状況を見て、これを言ってやりたいと思っても、その人が真剣に求めてきたときにおいてのみ言うべきでしょう。あとはそれでええじゃないのと。そればあのことで済まさしたらどうじゃろね。
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まだまだお元気なころの座談会で。声にも張りがあるし、勢いがあるし、丸くなったという印象はないですね。。口は禍の元。雄弁は銀、沈黙は金。わざわいは口より出でて身をやぶる。
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