自分以外に何もない(己心の法門)
- kisuke1965
- 2021年8月8日
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更新日:2021年8月15日
初代講頭座談会 2006年8月28日
御信心のありようも(顕正会当時と違って)だいぶん違うということが分かってきたと思います。大聖人様が方便ではなくて、肝心かなめのことは何をおっしゃっているか。自分なんだ。自分というものがシャンとしとらないかん。自分がフラフラしよっちゃあねえ答えが出てこない。諸天善神がおるとか梵天、帝釈、四大天が守っているとか。そんなことはないと日有上人は仰っている。そんなことは考えられないと。もしそういうものがおるとするならば、それは魔の所為だ。戒定恵の三学から離れてしまったならば、全部魔の所為なんだ。魔の所為とは、魔障がこっちにおって魔が働く。そんなもんじゃない。魔障とは全部自分の一念心の中にある。自分の弱々しい一念。困った困った困ったいうふうな弱々しい一念。他人(ひと)の言葉ですぐに紛動されてひっくり返ってしまうような弱々しい一念心。そういうところに必ず魔障が働く。魔障というのはどういうふうに働くかいうたら必ずそれは執着を起こす。疑惑を生(しょう)ぜらして執着を起こす。何でもないことに、ちょっとしたことに引っ掛かりを持つ。そしてそれが全部地獄の境涯に入っていく。自分からして。他の人は誰っちゃそんなことしやせん。その証拠として、どんなことをやっても所詮は全部自分が受けないかんろ。ええことしたその結果としてええ報いを受けていくことも他人(ひと)じゃないろ自分じゃろ。自分自体が悪念を起こしてサボって、せないかんこともせんとって後からいろんな苦情が出てきて、それを受けて立たないかんことも他人(ひと)じゃない自分じゃろ。自分以外には何にもないんぜ。己心の法門とはこういうことなんだから、うんと知っとらないかん。こういう大事なことを。そうせんとオカルトになってしまうぜ。何かこっち側にある。こちらにあるから題目をあげたら守ってもらえる。何かがこちらで働いてくれよるから守ってもらえる。こういうふうなことは一応方便として使っている。言葉としては使っているけれども事実はそんなものは全くないということを知っとらないかん。そうせんと、こんな世の中になってきますとね、ますますオカルトが盛んになる。オカルトの怖いとこは、皆さん方の弱みに付け込んでくる。家庭が不和、仕事がうまい具合いかない、病気、人との付き合いがなんともならない、子供がどうのこうの。こういうふうな弱みがある。お互いに。その弱みに付け込んでくるのがオカルトなんだ。そういうものに引っ掛からんようにしてもらわないかん。大聖人様の仏法というものはどういう仏法なのかということが分かってきたならば、これら(オカルト)の言ってることは全部おかしなものだということに気が付いてくる。
この御信心をね、信心信心って飛び回れっちゅうことは僕はいま止(と)めてる。全部。どの方にも厳しう、それ注意しよる。本当に南無妙法蓮華経のね、信心が分かってきたらね、日常の生活そのものが真剣勝負にならないかん。日常の生活の中において妙法蓮華経の功徳、光というものはピカーっと光らかせておらないかん。これは陰徳あれば陽報ありという御文の中から出てきますけども、そういうふうなことで信心と生活ってものがかけ離れてしもうて、どこやらさんみたいに、やりよったら良くなる良くなると飛び回っているところがありますけども、そんなもんじゃありませんから。そういうふうなことをよく心得られてね。そして御自分の姿が折伏になっていきます。折伏弘通というのは、寛尊が注意されていることは、折伏は己に向けること。自分の弱々しい命に対して、それを突っ込んでいく。そして妙法蓮華経の功徳、仏道修行の功徳、これをもっていく。世間でいうところの善根。世間では善根、善という。仏法においては修行していったところの功徳。これを自分の一念心にズーっと培(つち)こうていく。これが今度は外に出てこないかん。これが外に出てくるときには日常の生活にあらわれとらないかん。これはどういう姿になって出てくるかというならば、おおらかな姿になって出てくる。油引かれてギスギスしてない人、嫌なことにぶつかってもニコニコと笑っておれれる人、しんどいことにぶつかってもニコニコと笑って当たり前と取れれるような気持におれれる人、どんな悪口(あっこう)を聞いても自分の罪障消滅と心得てそれを受けて立てれる人。なんぼでも条件はありますけども、そういうふうなことを一つ一つ自分で考えてみてちょうだい。何か聞いたらすぐに言い返さないかん。口には口、目には目。そういうやり方しよったら地獄行きですよね。地獄というかすでに地獄に落ち込んでいるからできる。
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