義道の落居無くして
- kisuke1965
- 2023年4月1日
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更新日:2023年4月2日
初代講頭座談会 2006年4月3日
一、義道の落居無くして天台の学文す可からざる事。
義道というのはいつも大聖人様を中心に考えなければならない。日蓮大聖人様の教えが義道なんだ。末法は法華経じゃない。南無妙法蓮華経。これが末法独自の法華経。余経も法華経も詮無し。また、本門の法華経と迹門の法華経がある。南無妙法蓮華経、事の一念三千は本門の法華経。大聖人の教えをきちんと学ばずに他の勉強をしてはいけないということ。ここでは天台だが、広義的には大聖人様の仏法を学んだ後に他のものを勉強しなさいということ。そうすれば筋道がはっきり分かる。何を勉強しても分かる。ところが大聖人の仏法を学ばずに他の勉強をするとゴチャゴチャゴチャゴチャといろんなものが出てくるから混乱してくる。大聖人様の大筋の勉強をして、それ以外を知っていくというならば、すべて南無妙法蓮華経の功徳になる。これが分かっていないと、他のお経も素晴らしいと頓珍漢なことになってしまう。
大聖人様の仏法をある程度マスターして、次に世間に出ているいろんな本を見てみる。がんの末期患者の言葉や医者の延命術だとか、アメリカのカーネギーの言葉を読んでみる。大聖人様の御文を知っていて、それを読んだときには活きてくる。私たちは大聖人様のおっしゃることを行動している。成功している人の本を読んでみると、そのまま実行していることが分かる。仏法を実践していく中で、そういう人たちの書物を読んで見ると、われわれの方がよく知っている。勉強ではなく実際に行動している。最近、養老孟子という人の本がある。読んで御覧なさい。われわれの方がもっと知識があるから。われわれの方が素晴らしいということに気づくから。アメリカのカーネギーの本を読んでみる。大聖人様のお言葉とあわせて御覧なさい。われわれは毎日それをやっているから。「自分の商売を発展さすには(いやもめたら、不明)発展しない」。当たり前の話じゃ。自分が本当に幸せになろうとしたら、環境は変わらない。自分が変わらなければ周囲は変わらない。自分が変わっていくから周囲が変わっていくんだ。本当の幸せは周囲が変わっていくから幸せになるわけじゃない。自分自体が変わっていくから幸せをつかめる。こういうことがちゃんと出てる。これ大聖人の教えじゃないか。本を読んで、へーすごいなじゃない。われわれ自体、毎日これをやってるんだ。
あるがままに。無理をしたなら倒れる。正直に実態を見つめて、正直に環境を見つめて、正直に何の飾りもなくやっていく。それが成功の秘訣だ。こんなことはいつもここで話していることじゃないか。みんな粉飾してしもうて、人のところへ行ったら良いように見てもらおうとする。無駄な努力だ。むしろ悪い面を見せてる方が賢いよね。大聖人のお言葉にちゃんとあるじゃないか。人に軽蔑される。軽蔑されるからええのよ。そこに初めて自分が奮起できるから。軽蔑されまいとして叶うわけだから。そうすると反対に今度は嫉妬を起こすわけだ。あの人はあんなだって。あれ本当だろうか嘘だろうか。そんな心配ばかりしてる。家がもめたら、どっちが悪いか。私は主人の方が悪い、いや私は。。どちらでも構わんのよ。悪いと思ったら自分が悪いと、それでいいのよ。でも大聖人様は主人を誹謗してはいかんとおっしゃっている。誹謗するその言葉によって何年かのちには自分が苦しむようになる。人を悪くいったときには、必ず自分がかぶらなければならない。これを因果応報という。こういう道理を無視して、思い通りにいかなかったら相手を誹謗する。ちょっとでもおかしなことを言ったら相手を誹謗する。自分が正しいと思い込んでいるから。あれは間違ってる。あっちが悪い。これを修羅という。こういうことを言ってる人はいつも争いがある。こんなことで南無妙法蓮華経と題目をあげても変わりようがない。自分にも誤りがあるかもしれないと思うのが人間なんだ。
この話は、別の本の話をしたんぜ。実は。信心していない人の本に、こういうことが出てくるんだぜ。義道の落居無くして天台の学文す可からざる事。という意味がよく分かるだろう。だから大聖人様の仏法をよくよく学んでから、他の本を読めという。そうすると本当に分かります。
それをせずにあっちの本にはいいこと書いてあった。こっちの本にはこうあった。大聖人もこういうことを言ってる。これは法を謗っている人だ。この人は法華経の信心をしてる人じゃない。
妙法蓮華経の力が発揮されるには条件がある。良き師、良き法、良き旦那。これが揃わないと駄目だ。大聖人様は火打石に例えている。私たちが信心していくうえで、良き師なのか、良き法なのか、そして自分自体はどうなのか。これを考えなければならない。仏性があるから成道が遂げられる。仏性はみんなにある。この仏性が出てくるから、妙法蓮華経によって引っ張り出されるから、そこで初めて成道を遂げているわけだ。良き旦那とは、常にそれができているかということ。常に南無妙法蓮華経と題目をあげて常に自分の仏性が出ているかということ。ところが出てくるのは地獄が出てきた畜生が出てきた。南無妙法蓮華経と題目をあげて、そういや、この間あの人にあんなこと言われた。ひょっと思い出す。妙法蓮華経の力で昔のこと思い出しましたって。そんなことは忘れたほうがいい。
題目をあげるのは自分の仏性を呼び起こしているんだから。南無妙法蓮華経と題目をあげることによって己心の仏性が現れてきて、感応道交して南無妙法蓮華経になっていくわけだから。良き師、良き法、良き旦那の三つが揃って功徳がでるわけだ。オカルトのように思えるけどもそうじゃない。特に寛尊が注意していらっしゃるのは、同じ信心をしてる者が、あの人の行為がどう、あんなこと言うた、こういうことをしてたということを人にペラペラペラペラ語るな。謹んでおれと。決して言っちゃいかん。言ったことは自分が受けて立たなければならない。自分に苦しみが重なってくる。恐ろしい。生きているうちに受けなければならん。これが世の中のありよう。
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