縁に触れる
- kisuke1965
- 2023年8月11日
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初代講頭座談会 2002年8月8日
大聖人様の信心は、自分がどこまで変わって自分自体がどこまで大宇宙法界と同一鹹味(どういつかんみ)になっていけれる自分か。あるがままの姿であるがままに喜びあるがままに悲しんでいけれる自分かどうか。そこには虚栄心も何もないという自分に変わっていかないかん。そういう気持ちになったときは、たったこれだけの敷居でも何もなくなってしまう。ところが虚栄心があり求道心を失って自分本位の動きが始まったときは、これだけの敷居がこれだけの高さになる。やがてこれだけの高さになる。もうそこには。しんどくなっていく。求道心というものがある。良い縁に触れたいという思いもある。縁に触れるとは聞くことによって自分がどう動いていくかということ。自分が聞いただけで終わるのであればそれは聞いただけの話や。縁に触れるとは聞くことによって自分の仏性がどう自分の身体を動かしていくのか。そして自分の口はどういうことを言わしているのか。ということが縁に触れたということ。だから生前良き縁に触れるとは、自分自体がどう動いているのか。自分の生活にどう出ているのか。だから、なんぼここへ来ても、ひとっつも生活は変わらん、言うことも変わらん。というのであれば来る意味はない。悪縁に触れるということもそういうこと。日有上人の化儀抄にあるけども、悪縁に触れるとは自分を滅ぼすだけじゃない、家を滅ぼしてしまう。これが悪縁なんだ。これ余分なことだけども宇高って知っちゅう?男子部やった宇高。殺人犯して逮捕されちょる今。これが信心しよった人のやりよることかい?顕正会はというと、あれは創価学会員じゃいうて。なんも、顕正会員じゃないか。悪縁だろ。本当の正しい信心だったら、そういうふうな気持ちをもっても、これはいかんと思うて自制できるだけの云々がなけりゃいかんろう。戒定恵の三学。みんなそういう命は持っちうぜ。もの殺す命もある。救う命もある。それで喜ぶ命もある。みんなある。けども、大聖人様は目先のことに紛動されてしまってはいけませんよと注意されてるろう。目先のことに紛動されたら功徳ないいうて大聖人様、ハッキリ仰られてるぜ。四条金吾殿に仰っていらっしゃる。ちょっとした喜びがあるから、儲けたから、損をしたから、人に罵られたから、自分の思惑通りものができんから、いうて嘆いてみたり、悲しんでみたり、喚いてみたり。口には口よ、ということをやっちゃいかん。そういうふうなことをしておる時は功徳がない。功徳がでるとはどういうことか。目先のことに振り回されない。常に南無妙法蓮華経と。こう思いながらやっていける。これが功徳だ。そういう人に功徳がでてくる。だからねえ、自分自体がここ一番という時にね。必ずここ一番というときは目先のことに紛動される。その時に自分が紛動されない自分というものを見つめてね、でんと構えこんでね、それを乗り切ろうと腹が決まった時には必ず答えが出てきます。現証が出ます。その人に。仕事であろうが何であろうが。これはうんと何しといて頂戴。四条金吾殿に注意なさってるお言葉だから。(このあと最蓮房殿にと、祈祷抄を引かれています)。良き縁に触れるということは、それを聞いたら今度は自分が実行する。実行したときに初めて縁に触れたということが言える。信心もそう。寛尊が、信心せないけませんよと言われたきに、ああせないかんかというのもない。自分が本当に幸せになりたいなと思うたときに初めて手を合わせて南無妙法蓮華経とやっていくのが本当の信心の芽生えなんだ。そういうふうに寛尊は注意なさっている。
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