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生活の中に実行することができなかった

  • kisuke1965
  • 2023年5月27日
  • 読了時間: 4分

更新日:2023年5月28日

初代講頭座談会 2002年5月13日


質問者 ここでいろんなお話を聞いても、いままで生活の中で実行することができなかったんですよね。この頃特に気を付けて。。


私らもね。二十歳過ぎ。。そうじゃないな。三十過ぎ頃までか。なんぼ御信心の話を聞いても、それが自分の生活と密接に関係して、生活の中において大聖人の御法門を使っていかなということは少なかったね。だから仏法は仏法。生活は生活と切り離してしまったような信心をしてたよね。いまもって日蓮正宗はそれをやってるわね。阿部さんのとこは。それをやってる。だから日蓮正宗の信心でございます、いうたらみんな気の毒な、駆けずり回ってる状態だ。そうでなしに。やはり信心というのは自分の生活の中にあるんでね。だから生活の上から見たときには、信心が信心がというものは冥伏(みょうぶく)してしまって何にもないんですよ。あの人の生活は、しか言えない。それが信心ボケしてくるとどうなるかというと、信心が信心がいうて。自分の生活そのものを信心信心信心いうて暴いていく。言わいでもええ。それは。それはお互いが理解しとらないかん。生活即信心です。信心即世法。それがわかっとるかわかってないかの違い。だから何のために大聖人が行住坐臥の日常生活に信心をやかましく言われるのか。何のために大聖人が兵衛志殿、四条金吾殿に日常の生活を注意なさっておるのか。あるいは上野尼、あるいは妙心尼。いろんな方々に日常の生活を厳しく御指南あそばしていらっしゃる。北条弥源太にしてでもそうだ。日常の生活云々をおっしゃっていらっしゃる。それは取りも直さず私たちは日常の生活を除いては信心する場所ないのよ。日常の生活そのものが信心する場所なのよ。そして私たちは大聖人がおっしゃるように出家じゃないのよ。僧侶じゃないのよ。またご婦人は尼さんじゃないのよ。比丘、比丘尼じゃないのよ。だから在家でありながら僧侶の真似をしてるわけでもない。中途半端なもんなの。その中において信心信心いうてやってる。私たちの、自分たちの生きていく場所はどこにあるか。この世の中、そしてお互いがその日その日の生活をやってる。そこに信心があるわけだ。だから、生活を無視してしまって信心が信心が言ったらその信心はどこに生かしていく?生かす場所がない。生かす場所は自分の生活しかない。ここ本当に違わんようにしとらないかん。そうせんと何もかも放(ほ)っぽらかして信心だ信心だいうて走繰(はしく)り回る。だから僕はこういう会合のときには、仕事してる人にはなるべく声を掛けない。休みのある人、あるいは仕事をしてない人。それは心配いらん。けども仕事やってるいう方にはなるべく声をかけんように注意してる。仕事してる人には声をかけるなよと言うてる。なぜかと言うたら、声をかけたばっかしに仕事は行きたい、けど仕事もしたいけどこっちも来たい。中途半端になってしまう。それはいかん。さしとう(やらせたく)ないから。そういったことじゃなしに。仕事をやってると分かれば決して口にせんように。またご本人が出てきたければ、会がありませんかと問い合わせがくるから。こっちに。それでやっていく。それだけ仕事は大事だ。仕事を無視してしまって自分というものは(成り)立たないからね。お互いが。だからこういう会合があって、仕事で出てこれない人になぜ出てこない、そんなこと言いやしませんから。ひとっつも心配いらない。こういうことですよ。理解しとってちょうだいよ。だからこっちに来るいうても自分の仕事を無視してしまって出てくる方は私は喜ばん。ひとっつも。だから僕は創価学会におるときに。幹部しよったとき。自分の仕事をボイコットして座談会に出てきた人はぜんぶ追い返した。何してるんだっちうて。自分の仕事をせんかちうて。夜勤をやめて出てくるとはどういうことか。帰りなさい。言うて帰した。当時創価学会の幹部の中でそれやっとったのは僕だけやったそうだ。〇〇幹事は仕事の上で口やかましかったなあ、ちうて。それが大聖人様の御文なんだ。それが。

 
 
 

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