生活が修行
- kisuke1965
- 2021年7月3日
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初代講頭座談会 2002年7月18日
自分の言ってることが正しいと力説することが諍(いさか)いの始まり。お互い末法の凡夫が正しいとか間違ってると論ずることが、道理の上から見たならばあるかもしれないが、そんなことを論ずるより自分がどうあるかが一番大事なこと。だからね、文底で法華経二十八品を読めということ。文上で読んだときは分からなくなる。文・義・意の義で読んで意でとるか、大聖人の仰るのは義をもってとり意をもって知っていく。そうなってきたら法華経の信心は違ってくる。
もう一つ。戒定恵の三学が分かっていない。戒定恵の三学は(世間の中に)隠れてしまっている。伝教の三学倶伝。名曰妙法。三学は戒定恵。名付けて妙法蓮華経というんだ。妙法蓮華経とは戒定恵の三学の実名なの。南無妙法蓮華経と題目をあげていくのは戒定恵の三学を心得ていくことなの。戒定恵の三学はどこで使うかと言えば日常の生活なの。拝んでいる姿じゃない。拝んでいる姿が日常の生活になけりゃいかん。世法の中に仏法が溶け込んでしまっておる。その人には世間の法の一つの姿が出てくる。ところが戒定恵の三学を心得ておるから、戒は防非止悪だろう。定は定めておる。仕事をしている人は仕事を目的として必死になってやっていこうとする。恵は知恵。南無妙法蓮華経は三世諸仏の知恵と大聖人は仰られる。三世諸仏の知恵が一所(ひとところ)に固まっておる。ものすごいこれ。もうひとつ。南無妙法蓮華経は徳がある。釈尊の因行果徳が備わっている。妙法蓮華経を信じて南無妙法蓮華経と題目をあげて、たった一言だけども信じ切って一言摂尽の題目をあげたときには、三世十方の諸仏の知恵を一身に受け、釈尊の因行果徳を自分の身にやすやすと受け継ぐことができると寛尊の御指南にある。では、そういう信心だからといって仕事に行って題目をあげられるかい?そんなことをしてたら馬鹿かと言われるで。だから大聖人様の御文を拝すると、その仕事に全力投球することが法華経をたもっている人の修行なの。全力投球するからその仕事において知恵がわいてくる。ええことも悪いことも分かりだす。何かええ仕事はないやろうかと、あっちきょろきょろこっちきょろきょする必要はない。与えられたものを消化することに全力投球することができる。これが法華経の修行なの。世間の法に染まった姿になってしまっている。これが真実の仏法だといわれておる。信心しておりますと目の色変えて折伏だ折伏だと飛び回るのは信がない。本当に信心をやっておるというのであれば、戒定恵の三学をきちーっと捉えて、自分自体の目的はいま何なのか。何をせないかんのか。病気なら病気を快復ささないかん。これが戒定恵の定だ。じゃったならば知恵はどう使うか。良い医者はどこにいるか。良い医者を得れるか得れないかは、自分の果報にあるということを知っておらんといかん。いい医者に巡り合えません。そうじゃない。その本人に果報がない。人生において徳を積まないかん。果報を得ていかんといかん。大聖人は不軽菩薩の修行になぞらえて教えてくださっている。だから、最蓮房殿に行者の行いの愚かなるによるか。したがって功徳が出てこないと仰っている。日常の生活をなおざりにしておる。仕事も真剣にようやらない。家の中におっても不平ばかり言っておる。こうやって生活できる有難味が分からない。こういうふうなことでどうして守られる辺があるぜ。目の前にあることによっていちいち一喜一憂して、心配しよったと思ったら手放しで喜んで、と思ったらまた心配する。そんなもんでどうする。大聖人様は苦笑いしよるで。
一昨日でしたかね。大きな問題があった人から電話をいただいて。解決したと喜ばれて電話くださった。その中にこうあった。その大きな問題を自分が忘れてしまった。苦しいということを知っとりながら頭になくなってしまって南無妙法蓮華経というふうな状態になってきて、よっしゃやっていこう、どういうことになってもええわという腹になって一日二日忘れとったらしい。そうしたら解決した。僕はいっつも言うろう。頭にある間は解決しませんよと。頭になくなってきたら解決すると。そのとおりよ。
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