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無疑曰信(むぎわっしん)

  • kisuke1965
  • 2022年9月2日
  • 読了時間: 8分

更新日:2022年9月4日

初代講頭座談会 2001年9月30日 (データとして一番古いもの。それまではカセットテープだった。。)


寛尊の御指南を引用させていただきます。無疑曰信。これは法華題目抄文段の中で寛尊が御指南遊ばしている。ただ信じなさい信じなさいじゃないんですね。ようするに自身においては決して疑ってはいかん。御本尊様の云々においてですね。自分自体の行動そのものにおいては、疑いというものを挟んではいけませんよと。けども自分がたもっていこうとするところの法。そして教えてくれるところの師。この二つについては一応疑ってかかりなさい。これ大事なことなんですよね。だから自身においては疑ってはいけませんけども、師と法の二つは疑って、そして明らかにしなさい。胸に一物持ってはいけません。自分自体がすっきりしませんということであってはいけないと寛尊は注意されているんですね。もし疑わずんばまさにまた邪法邪師を交えて、ね、自分自体が気が付きませんから何にも疑わずにかかっていますから。インチキなこと教えられていることも気が付かん。そして教えてくれる人が胸に一物も二物ももって、カルト教団みたいに、法は立派なことを言ってるけどもその裏っ側をひっくり返してみると全部お金儲けのためにやってると。はっきり言って顕正会、創価学会全部そうですね。お金儲けのためなんです。そういうふうなことを平気でやっていく。じゃあそれを疑ってかかってないから、それをおかしいと気が付かない。まして広宣流布なんていうものはですね、宗旨のあるいは宗教の本分から見てですね、どういうものか分かっていない。ただやみくもに、こうだと言われたらそれだけ信じてると。自分の判断する能力というものを封殺されている。これが恐ろしいことなんですね。自分自体の判断していく力がなくなってしまっている。これがカルト教団の特徴なんです。そういうふうなものがいつのまにか日蓮正宗と名乗る宗教団体にもじわりじわりと寄ってきている。こういう恐ろしいものが。利用されている。信者さんが。法主の言うことをきけ。坊さんの言うことをきけ。というふうなことをやってる。そうじゃないんですよと寛尊は仰ってらっしゃる。もし疑わずんばまさにまた邪法邪師を交えるなるべし。だから、疑ってかかりなさい。いうことなんですね。疑いを熟して善師これをえらぶべし。疑って疑ってかかって、そして初めてこれはこうだったなと思ったならば。それ(師)をえらんでいきなさい。疑いを解(げ)のもとと申すとはこれなり。師法すでに正しければ依法もまた修行せよ。そのとき・・・(師法已に正ならば、法に依って修行せよ。爾の時、三疑は永く須く棄つべし」等云云。)。これ解釈しますとね。疑いは必ずしも良いことではないけれども、しかし自分自身に自己矛盾があっては良くないからよくよく考えなさい。そして師と法の二つについては徹底的に糺(ただ)し信心を体得すべきである。疑いは解脱の入り口であり、そしてまた疑い抜いて初めてそこに疑いが尽き、全く疑いの入る余地がなくなったときが信が生まれておる。疑いなきを信というのである。こういうふうに無疑曰信ということについて寛尊は説明されている。だからこういう会合(座談会)とは何をしているのかといいますと、皆さん方は一物も二物もあると思う。多分。言わんだけで。(笑)。言ったら怒られると思っている。そうじゃない。疑うのは当たり前なんだ。また、この御信心は事迷(じめい)の上に立つ宗教なんですからね。事迷とは迷いでしょ。未断惑ですから。そして荒凡夫ですから。荒凡夫というのは三毒強盛の荒凡夫。地獄餓鬼畜生の三毒ですから。師匠もまた三毒強盛の悪人。弟子もまた三毒強盛の悪人なり。如説修行抄の中で大聖人様ご説明なさっている。そういうふうな者が南無妙法蓮華経と題目をあげている。これが事迷の上に立つところの宗旨なの。理悟(りご)の生命じゃない。これは本果の世界ですから。天台大師、伝教大師、あるいは釈尊だとか、出来上がってしまった人のありよう。事迷じゃありませんから。けれども大聖人は事迷の上に立つ宗旨ですから。迷っているのは当たり前で、いろんなことをごちゃごちゃ言ってるのも当たり前で。それを言ったからいかんじゃない。しかし、それが分かってくると言ってはいけませんよということなの。分かるまでは何年かかるか知らんけども。これで分かったでしょ。遠慮なしにどんどんどんどん聞けばいいということだ。お客さんじゃないからね。そして大聖人様の仏法というのはこういうものだと分かってくればこれくらい素晴らしい話はない。前もって寛尊の御指南をひとつ耳にしていただいたら・・・。では続けましょう。

質問者→〇〇講の大阪の方からご質問があったんですけども。10月の28日に御会式という式があるということです。そして御会式が大事な行事だということは分かるんだけれども、何がどう大事なのか。

難しいねえ。何がどう大事なのかは、その御本人御本人の御信心のありようでね。だからただ行くのがええのか。それとも報恩感謝のために行っておるのか。あるいはまた大聖人様の滅不滅を寿(ことほ)いで行くものか。いろいろあるんで。その人の御信心のありようですから。ともかくも御会式の大事とは、どういうことかと言えば。滅不滅を現じた、その大聖人様のお姿を拝して、この三大秘法という仏法がいかに素晴らしいものなのかということを寿ぎ奉っているわけでね。そしてそれを教えてくださった大聖人御自身のお姿を見せていただいて、真実であったということを掴んでやってるわけなんでね。そこが分かってきたならば御会式が大事であるということは分かるでしょうし。また報恩という意味合いは、私たちはこの法を信じて説のごとくに修行していくことが報恩だと、こういうふうにお説き遊ばす先師上人方々もいらっしゃるわけですから。報恩報恩いってますけど。恩を報ずるとは何が、というたならば、この法を信じてやまないということも報恩ですからね。御会式の大事とはそういうことを心得て出席なさることが大事なことじゃないかと。難しいことはないですね。自分の生まれた日を寿ぐ。すなわちお誕生会。誕生会をやってる会社もありますからね。大聖人様がこの素晴らしい仏法を教えてくださった。それを祝う。これは当たり前。これが4月の28日。立宗会。本末究竟して見てみると立宗会と10月の13日の御会式、滅不滅を現したこの二つは大変大事なことだから。この二つを心得ていただければいいんですけども。問題はね、その御本人がどうとらえているかが問題。御信心の大事がここにあるの。ここにお集まりの方々がね。この御信心のことにおいてもね。なんぼ話を聞いてもね。ここにね、湧いてくるものが何にもなかったらね、なんちゃならんぞね。いやホンマに。一時間半ここに座った。二時間座ってね。御本尊の話を聞いてもね。良かった良かった。口でペラペラ良かった良かった言うてもね。自分自体がね。自分の一念心の中にね、己心の中にね。ジワーっと湧いてきたものがあってね。信心が今までだらしなかったのを反省してね。これではいかんかったなあと思うてね。こんな素晴らしい信心をしとったのかと自分自体がワクワクなったときはね、今日来た甲斐があるけどもね。それが湧かん限りは今日来た意味は何にもない。それは勉強しに来ただけだから。理屈を聞きに来ただけだから。そのことも注意されている。果たしてお互いが自分の己心に良かったという思いをもって。ゴンとね。何かぶつけられるようなもんがあって、衝撃受けて。こんな信心ってどうなってるの。何もかも自分自体がウロウロウロウロ、ちょっと病気やいうたらオロオロしてしもて、ちょっと何かいうたらオロオロして。どうやったらええ、どうやったらええ。方法ばっかし考えている。こんな信心しよったら情けないというふうに言えるんだったならば、その人の信心は素晴らしいけども。それが当り前よと思うてしもうたならば、もう大聖人様の仏法じゃない。大聖人様の仏法はオカルトではない。真実を教えている。~中略~プラセボ。プラシーボ現象。百人のうち三十人が病気が治ったと言ってるけど。メリケン粉をのんで。これを宗教に利用したらどんなことになる。顕正会なんてこれを利用している。功徳が出た功徳が出たとやってる。真実に功徳が出てるか出てないか。その本人を見たら分かる。なぜかと言えば顔突っ張っている。言葉が荒っぽい。動作もギスギスしてる。功徳なんかある道理がない。それで。本当か嘘かはその本人をつかまえて、それ功徳じゃないと教えたらすぐ分かる。なぜかと言えば罰の現証が出てくるから。明らかにしてやったらすぐ現証が出る。これ恐ろしいことなんだよ。だから大聖人様の仏法の功徳が出るのは、日蓮大聖人の仰せのままの信心をしたときに功徳が出る。要するに法華経の文をたもっていく。大聖人の言葉を信じ奉ったときのみに功徳が出てる。信じて行動したときに功徳は出るけども、大聖人の言葉を信じんとってやって、人をののしりながらやっとって功徳が出る。おかしいじゃないのこれ。科学的に言ったならばプラシーボ現象だ。だから、そんなの功徳じゃないよと言ったら、しばらくしたら罰の現証が出るよ。以下略。

(人の悪口は言われませんという話。謗法とは自分の生まれたところをそしっているのと同じ。謗法とは大宇宙法界をそしっている人のやりかた。南無妙法蓮華経は大宇宙法界の話。それは私たちの生まれ故郷。死ぬときはそこへ帰っていく。先師上人の御文がいくらでもある。私たち自体の素晴らしさはそこにある)

注:顕正会を離れて10年後、初代講頭が亡くなる10年前くらいの座談会。創価学会員が亡くなったとき、創価学会を破折したら臨終の相が変わったなんて話も聞いたことがある。わざわざ押しかけたわけではないと思う。初代講頭と創価学会との関わりの中での出来事だから部外者は判断できない。なお、御僧侶からは臨終の話はしないほうがいいと言われてます。こういう話を聞いたことがあるということで。

 
 
 

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