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法は妥協できない

  • kisuke1965
  • 2023年4月22日
  • 読了時間: 7分

更新日:2023年4月29日

初代講頭座談会 2002年4月11日


妥協しようとしても法は妥協できない。厳然として備わっているものだから。春と夏と秋と冬が巡ってくるのに妥協できる?寒いの嫌だから寒いの何とかしてくれとか。妥協できっこないろう。法は法でそのままあるんだから。

ところが仲がいいばっかりに妥協してしまうんだ。せられんとこで妥協しちゃうんだ。

質問者 何となくわかるような気がします。

何となくわかるろう。しんどかったから今日は勤行サボったわ。気色悪いわね。そうよね。勤行サボったら気色悪いよね。それでいってしまう。仲の良い人は。

ところが法に生きていこうとする人は。それでいいのかね。そんなことでいいのかね。

勤行一回サボったからってどうってことないもんね。講頭よく言うもんね。だからそんなことないもんね。損をするのは私だからね。

似たような言葉を使って妥協していく。ところが、そうじゃないぞと、一言言ってくれれば妥協できないよね。勤行そのものが自分たちの信心の基本ですよと、いつも言ってるじゃないかと。そんなことでうまい具合行きますかと言われれば、ああ、そうかいなと思う。これは妥協してない人だ。妥協するということは、お互いが信心だ信心だと仲ようにペラペラ言える人は怖い。なぜか。妥協しちゃう。いつの間にか妥協しちゃう。松山の4人か5人の人が、仲ように、今日はこっちでコーヒー飲みに行こう、今日はどこそこの百貨店へ行こう。行き周りよるかえ?それは結構な話よ。ところが、その中に仏道修行をおろそかにするような話になったり、法を見失うようなことを平気で言うようになった時が危険なのよ。やれ、貸しましょう。はい、もらいました。買うてください。はい、何してください。いろんな話があるわけなのよ。仲間同士だから。それはどうってことないんだよ。それがなかったら生活できないんだから。それは構わない。問題は、それをすることによって自分の命を濁すか濁さないかが問題。もし、自分の命を濁すのであれば、せんがまし(やらないほうがまし)。やった限りは濁さんことなんだよ。これよくある問題なんだよ。

今日は来てないけどね、ある人が高松のほうの(会社の)砂糖と小豆やったかな。投資した。何百万と。友達におだてられて、儲かる儲かる言うわけで、どんどん金をつぎ込んだ。それを僕が聞いたから忠告した。今時そんな話はないぞ。そんな儲かる儲かるいうバカな話ないがなあ。眉唾違うか、いうて。いや、そんなことはない。研究した果てに、世話してくれてる人もいい人だから。そんなことないけどって。

ところが、しばらくして相談があった。始めは儲かる儲かるいうて配当金もくれよったものが、だんだんだんだん金を入れろ、今度はなんぼ入れろいうて、今回は何十万、今回は何百万入れないかん、いうて。大損になる。計算したら。果たして元が取れるか取れんか分からん。もうやめた。というわけだ。これから高松へ行って交渉してくる。金戻せいうて。それで本人さん行ったわけ。行ったけども、それは返すわけにはいきませんと拒否せられて、会社で大ゲンカしたいうた。詐欺じゃないかって。ところが詐欺じゃないわけだ。相場とはそういうもんだからね。だから儲かる儲かるいうて、金を突っ込まさせるからね。

そこで僕はこう言うた。金を捨ててなおかつ自分自体が地獄の気持ちになるんだったら、そんなバカなことをす(る)な。金が返ってこんからいうてイライライライラするな。始めから突っ込むな。突っ込んだ限りは、返らんかったら返らんでケラケラっと笑っとれ、いうて。返ってこんかったら縁を切ったと思ったららいい金儲けじゃないか。それぐらいの腹になれいうて忠告した。最後に、どうやったら返るか、その方法を教えてくれというわけで。冗談半分に、その金が返ったらウチは物置がのう(なく)て困っちょるが物置でも、いうたら。拵(こしら)えちゃる拵えちゃる、いうて。金が返ってきたら拵えさせてもらういうて。ワシ冗談で言うたんで。そしたら不思議に返ってきた。突っ込んだばあ(くらい)の金は返ってきて損はせずに済んだ。それでヨドコウの物置ができた。そんなものよ。

これは、その人が守ってくれた。何百万の金を突っ込んだいうてイライライライラして金が金がいうたらダメやった。サワーっとしてしまって御本尊様なんだと、無一文になってもいいじゃないかという腹になった時に道が開いた。取れるか取れんかと悩んでるときに道は開かなかった。取れんでもいいじゃないか。本当に御本尊様を信じ切ってれば、それでいいじゃないか。金以上のものがあるんじゃないのか。いうた時にハッと気がついた。御本人が。それで、この素晴らしい信心しとったら。何百万だそうが何千万円だそうが手に入らんぞ。この御信心のすごさは。それがわかったならば法が大変大事になってくるぞ。金じゃないぞと。自分自体の生活、金で買えるか。そうじゃなかろう。妙法蓮華経で道を開けよ、いうて。これが相手から金をとってくる方法やった。それで戻ってきた。ワシまさかと思うて。(物置)持ち込んできたんでビックリしたよ。

そうすると、世間の法もまた仏法かということは、仏法を知っとる者が見たときには世間の法もまた仏法になる。けど仏法を知らん者は世間の法は世間の法なの。だからね行住坐臥に修行しなさいとボクはよく言ってるの。大聖人様の御文のとおり。先師の御指南どおりに。行住坐臥において修行するとは、仏法を知ってる私たちにすると、朝起きたならば、ああ今日一日(いちじつ)また元気にやらさせていただけるか。こう思い。晩が来たときには、今日一日無事息災に過ごさせていただいたなあ。有難いなあと、こう思うわけだ。そうだろう。そして日常のありようのときには、腹が立ちそうなときには、これで腹を立てたならば修行にならんなと思うたときには、そうじゃないんだと。口舌がでそうになったら、その言葉を南無妙法蓮華経に変えていきなさいと。先師上人の御指南にちゃんとあるわけなんだ。文句言うて、怒りとうになった時には、そうじゃない、南無妙法蓮華経と題目があがるようにしなさいと。そういうふうに教えられてる。日亨上人様も。それをやってみる。それが修行だ。日常の。そうすると私たちは行住坐臥においての修行というものができているわけだ。そうすると、身近な人との付き合いにおいても、たとえば、ないでしょうけども金貸しにしても、貸す側にしたならば、仮にそれが返ってこんにしたところで口舌は言わない。返らなきゃ返らんでええ。それだけの腹がなけりゃ。

返るという当てをもってやるなら難しい。それは御信心を狂わすから。自分の。ひとさんのためにやっといて、なおかつ自分が地獄に落ちるような行為をするんじゃったならば、初めからせんがまし。やる限りにおいては、それがどうなろうとも口舌なし。南無妙法蓮華経。それでいけば、本人さんは救われるろう。それがこだわりになった時には信心はできなくなるろう。一つの怨念をもつから。口では南無妙法蓮華経と題目をあげながら、いっつも怨念をもってるから。その怨念というのは必ず怨念の姿が出てきますから。生命のありようというのは物質面に変化して出てきますから。一念三千の法門ということが分かってくると大変恐ろしいものがある。自分の一念心のありようで、全部姿が変わっていきよりますから。対外的にも変わってきますから。自分の眼(まなこ)においても。立ち居振る舞いにおいても。椅子に座るときの足の組み方でも。握手の手の握りようでも。全部出てきますからね、その人の一念心は。恐ろしいですよ。これをちゃーんと説明されてる。十界互具によって。だから世間の法もまた仏法かというのは、御信心をしとる我々から見て言えるんで、御信心してないと分かりっこない。それは信心に立っている人だけが言えることなんだ。やっとっても体験のない人には分からんでしょ。区別ということは自分がキチっとしとらないかん。外に出してしまうものではない。あくまでも自分の己心のなかに法というものをキチーっとたもつ。無量義経にあります。この法は水のごとく一切の垢穢(くえ)を流してしまう。この法も一切の煩悩の病を流してしまうとある。どのような悩み事があったとしても流してしまうことができる。御本尊様を信じれた人、南無妙法蓮華経の信じれた人は、その時、悩みのどん底に落ち込んでいても信じれた時点において、刹那であっても、ホッとした思いをもって顔が明るくなるはずなんだ。それは無量義経に説かれているとおり刹那においても成道を遂げていける。それは御本尊を信じれたからだ。南無妙法蓮華経が信じれていける人は、越せれんようなハードルであってもバーンっと突っ込んでいく。そして壁をブチ破る。これができる人を菩薩という。菩薩いうたら大慈大悲でウダウダやってるわけじゃない。本当の大慈大悲をもってやっていくには、こういう強さがなけりゃいかん。

 
 
 

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