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本有の尊形

  • kisuke1965
  • 2023年1月1日
  • 読了時間: 10分

更新日:2023年2月4日

初代講頭座談会 2003年1月14日


日有上人様の御説法を引用して、日院上人「私に曰く、我らが六根の中に心は国王のごとく表の五根(眼や耳)は臣下のごいのごとく。みな一念の深奥より出でて五根ふるまいをなすゆえに世法にも苦しみにたとえたるなり。いわんや仏法には正法念経に、心は工みなる画師の如くと説き、華厳経には、心は工みなる画師の如く種々の五陰をつくると述べてある。ゆえに人々、ないねんそうけん五根にあらわれる眼耳鼻舌、表等に分明(ふんみょう)なり。このこと経論釈しょうはんけつするところのゆえに御沙汰のためというなり。いわんや外見しんとうをや。ゆえに戒めて外見これあるべからずというなり」。(文字起こしはグダグダです。。)

外面(そとっつら)ばかり言っちゃいかん。肝心なことはここ(胸中)だ。ここ(胸中)は全部ここ(顔、外見)に出てくる。病気でもそうだろう。自分が病気に飲み込まれてしまったときにはその病気は重うなると昔からいう。しかし飲み込まれてないときには返ってその病気を克服して治していくと言われている。これ天台の止観にもでてくる。心が問題なんだ。だから針小棒大という言葉があるが、気の弱い人は何でもないことを大変大事そうに考えてる。やがてそれが針の穴よりかまだ小っちゃいようなものがだんだん大きくなってきて人が出入りするような大きな穴のようになっていく。だから第三者が話をじーっと聞いとったら、なんでこんなことに気をつこうてやんやん言わないかんかいなと、こう思う。その本人自体が、心の悩みだろうな。自分自体がその心、自分の命といおうか、心性、心の性分といおうか。この心性を感ずることによって、それを克服していく。いまの本有の尊形にならんかっちゅう問題だ。だから御本尊様が信じれている人は、信じれてるなりの言葉が出てくる。御本尊様が信ずることができない人は、信じれんような言葉がちゃんと出てくる。振る舞いもそう。目の置き方もそう。勤行の時も本当に御本尊様が信じれる人は。。どうだろうなあ。そりゃ睨み付けろというんじゃないけどね。南無妙法蓮華経を。けども素晴らしいものだなと拝見はできる。だから勤行の姿勢が違うてくる。ごぞごぞごぞごぞやりながら勤行しとる人なのか。勤行しながらいつも線香をいじっとるのかお鈴をいじってんのかお数珠をごちゃごちゃ。いろんな人がおるんじゃ。それじゃ心ここにあらずじゃろ。勤行するんだったら勤行するらしく。御本尊に向かっとらないかん。それはその本人の心そのものに御本尊がないという証拠なんだ。ただそれは拝んどりますという人なんだ。ここにちゃんと日有上人の化儀抄にでてくる。一番大事なことはこれなんだ。本当の功徳はこれなんだ。これができるかできないかが功徳なんだ。これから始まってくる。楽しい人生を送るっていうのは自分自体にゆとりがある心を持っている人なんだ。いっつも困った困ったと思ってる命を持っている人は何を見ても面白くないわけだ。心ぐらい大切なものはない。

だから病気病気っておなかが痛いいうがはたしかに痛い。痛いからというて、別にそうなにすることもない。弱ることもないろう。南無妙法蓮華経だから。どうこうないから。別に信心は信心で、痛い痒いと関係ないから。御本尊様を信じていることと。自分たちの日常生活の中でへまをして、こんなになったあんなになったがと。信心と関係何ちゃない。信心と関係あるように見れば、それは世間また仏法とおっしゃるけども。そんなもんで仏法を引っ張り持ってきて、ワシこんなになった。そうじゃない。信心というものはやっとりますやっとりますという必要はない。飄々として淡々とした信心をしていればいい。それが本当の信心のありようだ。世間でも言うろう。実るほど稲穂が垂れるがごとく、人ができてきたら頭が低くなってきて重みのある人になるというがそれと一緒だ。信心だって、分かってきた人は信心が信心がって言ってないよ。ニコニコ笑っているよ。あるがままの姿で。日常の生活そのものが信心だから。信心が信心が言うことないよ。ごはんいただくのも信心の姿勢だから。「有難いな」思うていただくのが信心なんだから。どこ行ったて。言うこと聞かん息子はどこ行ったち、有難いなあと思うていけばいいんじゃ。行けれるんだから。それ自体が有難い。そしてまた、そういうふうな姿の中でええもの見つけて、ああ良かったと、元気でおってもらえるのが一番ええんじゃ。そう思うた時には、元気でおれること自体が素晴らしいことじゃなと思うて、親子としての話し合いができて帰ってこれたときには、有難いなあと思うほうがええんじゃ。自分の言えること言わざったじゃない。そういうふうに一つ一つ見てみるんだ。そうした時に、それが本有の尊形で何か光ったものが見えるわけだ。尊い姿を見せていくわけだ。

だから私たちの御信心は。みなさん方に改めてもらいたいのは、信心が信心がということはやめていこう。飄々としとったらええ。妙法蓮華経の中に私たちは包まれているから。分かる分からずに関係なく包まれているから妙法蓮華経に。その証拠に困った時には南無妙法蓮華経が口に出てくるから。どうしようかこうしようかて、思案する前に南無妙法蓮華経が先に出てるから。それから思案したらええ。思案するときも地獄の思案をすることはないから。仏の思案をしたらええ。何を考えても道は開くきんなあと。こう思うとったら一番ええ。自分が行き詰んでしまったと見たときには、南無妙法蓮華経が道を開いてくれるんだからつまらん思案なんかすることないわ。やるべきことさえやっとけば。それが立派な思案なんだ。それが道を開く本当の元なんだ。そのやり方覚えちょいて。素晴らしく道が開くから。これで。

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質問者→自業自得と大聖人様の御計らいは違うんでしょうか。

さあなあ。どうかな。同じかもわからんな。大聖人の御計らいと取れるときには妙法蓮華経の影響を受けている。自業自得は、あるがままの姿。貪・瞋・痴で振舞っているときは自業自得だろうな。見たらすぐ腹を立てる、欲しいものを見たら辛抱せん、行きたいと思えば後先考えん。結果として出てくるものは自分を苦しめるものばかり。これは自業自得だろうな。しかし、その本人が持ってる業報がある。その業報は妙法蓮華経の功力によって変毒為薬さすこともある。10をかぶって即死状態になる人がいる。それを人に見せながら5、6で終わらせる。転重軽受の姿をみせる。事実において姿を見せないかん。仏法は事実だから。その時に妙法蓮華経の功力によって、自分では納得できないものを見せていく。人さんも納得できないもの。なぜ、こんな姿になるんだろうという素晴らしいものを見せる。どこかに原因はある。でも考えても分からない。

自業自得は自分で分かり切ったことをやりながら痛い目をしていく。周囲から止められても自業自得としてしっぺ返しを受ける。これは近因。近い因は目に見えて、まだ判断ができる。しかし遠因がある。遠因はなにか。過去の罪業。業報。よくみなさん方が罪障という。罪障とは何か。過去の悪業が菩提心や仏道修行の障りとなること。摩訶止観に三障四魔。~略~。止観というのはモノごとを定めて本当のありようを見ていこうとする。自分の命がざわついていたら、こんなことしてていいんだろうか。あの人の言うこと聞いてていいんだろうかと迷いを生じる。煩いが起きてくる。これが罪障なんだ。罪障とは仏道修行を妨げる自分の命の働き。南無妙法蓮華経が素晴らしいと分かっていても体が痛んできたらどうこうなるというのは罪障の働き。南無妙法蓮華経で罪障を消滅してきたら、こんなもの問題じゃないとケロッとしたものに変わってくる。だからみなさんはまだそこまで行かんのじゃないか。なにかあったらオドオドして飛び回ってる。おらんやんか。大事なことを話ししようとしても。これが罪障。

次に罪報。犯した罪に対しての報い。罪業を元として現在および未来に受ける苦果をいう。自業自得はこれに入る。

次に罪業。業は行うということ。業には福業と善業と浄業がある。しかし罪の方。未来に苦果を感じていく因となる悪業、所作をいう。身口意にわたる所作。口と心は軽い。しかし身口意にわたる所作は重くなる。

全部が自業自得。その自業自得の苦しみの中で、妙法蓮華経をたもつがゆえに自分自身の一念心が清らかになることによって逃れていくというのが妙法蓮華経の功徳。これは大聖人に御出会いできなかったらできない相談だろう。功を上に上げたときには大聖人様の御計らい。間違いないろ。御信心の云々になった時には、いかなることであっても妙法蓮華経。日蓮大聖人これ思えとおっしゃられる。

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御信心のおかげなんじゃ。気の短い自分が変わったもんなあ。あだ名がなあ。創価学会ではブルドッグとつけられとった。カミソリと言われてた。それだけ切れよった。今はさび付いたカミソリになった。さび付かないかん。なんでもそうだ。錆びるということは言葉悪いかしれんけども、錆びるということは重みのある話だからな。御信心が分かってくるほどに、あの人信心してるんだろうかな、題目あげてるんだろうかな。その姿、ひとつも見せん。見せんけども、その所作というものが題目があがっている所作であり、本当に御本尊を信じ切って任せきってやっていく所作である。これが私たちの日常の生活であるととっといてちょうだい。それができてきたときが一人前の信心だと言われてますから。まだまだそこ行かんから。お互いが。すぐに信心を振り回したくなるから。木刀をね。(笑い)

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今の日蓮正宗の在り方とは全く違うんだ。当時の僕らの信心のありようは。昭和17、8年ごろの話だけども。冨士大石寺の御宝蔵に参詣したことがある。戒壇堂に。戒壇の大御本尊に御目通りした。その時の猊下様が日恭上人様なんだ。日恭上人が導師してくださって。その時、この(戒壇の大)御本尊を信じる限り、いかなる事態に臨むとも必ず生きて日本の土を踏みますと日恭上人がおっしゃった。信心強盛なるによってここに武運長久の御祈念をして重ねて大聖人の御加護があることを強く御祈念申し上げます。

まだ、付け足しがあるの。ふつうは戒壇様にお目にかかることはまずないとおっしゃった。なぜかというと秘密の法なんだ。お目にかかるもんじゃない。ここ(己心)の話だから。なんぼ信心強盛であっても。ただ、それでは無慈悲なというわけで、生きるか死ぬかというときとか、その人の信心を愛でて御目通りさすというのが戒壇様に御目通りする理由なの。いまは反対なの。創価学会の宣伝のありようそのままで、御目通りしないと功徳がないと、こういうやりかたをやっている。そうじゃないの。だからね、難しいことは何ちゃないが。ただ御本尊を信じておれ。それだけやったが。

たとえばね。いま拉致という問題が起きている。私はねえ中国共産党の軍隊。前身は八路軍。八路軍に拉致されかかった時にバンドに手を入れられて引っ張られた。引っ張る連中はもちろん銃を持ってる。引っ張られて5、6歩、歩いたかな。向こうから一人兵隊が走って帰ってきて、何やら僕を押さえているのとワアワア話してるの。すると手をパッと離して向こうへ行ってしまったが。その間に自分は走って逃げてきたわけ。いま考えてみると、向こうから走ってきたのが諸天の働きをしてるの。もしこれが来てなかったら拉致されてるろう。不思議としか言いようがない僕には。略奪におうたことも書いてある。徐州の列車事故のことも書いてある。全然知らん人から5万の金をもらったことも書いてある。そうやって天津まで食いつないだこと。拳銃を頭に突き付けられて強奪された時も何のきょうかん(感興?感情)もわかなかった。平気でおられた。御信心というのはそんなもんじゃないかな。自分には分からんけどもいつのまにか命に染んでる。いまもそういうものが僕にはある。

 
 
 

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