日常生活が御信心
- kisuke1965
- 2021年12月4日
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更新日:2022年8月15日
初代講頭座談会 2008年12月19日
信心というものの取り違えが多い。日蓮正宗そのものの誤りだけれども。御信心とは日常の生活のことを言ってるからね。信仰心によって生活を見ている。寛尊のお言葉にあるように「仏法のいわれを知ればまた世法も仏法か」とおっしゃるように、日常の生活そのものが仏法なのよ。だから仏法のいわれを知らなければならない。仏法のいわれとは、大慈大悲やろ。根本は。そして不幸になるため信心する人はおらんのよ。幸せになりとうて信心するのよ。生活を放ってしまって信心は成り立たない。自分の生活を全部ひっくるめている。そして自分の日常生活そのもののありようを見たときに、これが三大秘法の南無妙法蓮華経也と見れれるかどうか。問題はここなのよ。三大秘法の信心をしておる。本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目と言ってるけども、これ戒定恵の三学の話やけども。これが日常の生活なのよ。防非止悪。戒定恵の三学なの。だからね、御信心が本当に分かってきたらねえ、日常の生活において信心が信心がと(言うことは)なんにもないのよ。口から信心の話が出てこなくなるのよ。それが何が出てくるかいうたら戒定恵の三学の言葉が出始めるのよ。信心して良かったねえ、お家がだんだん変わってきたねえ、あの方の言うことも違(ちご)うてきた、日常の生活もこんな状況になってきたねえ、生かされておることに喜びを感じ、罪業消滅に喜びを感じ、苦労が来た時には励みと捉えてやっていこうとする姿に変わっていくのよ。これが(こういう)御信心をしてる姿に変わるのよ。これが法華経を持(たも)っている人の姿なのよ。もっと強く言うなれば、日常の生活そのものは、大聖人様のお知恵をいただいてやっていこうと心得ていくのよ。こういう状況になるのよ。そこには、私は日蓮正宗でございます、いや私は題目あげてます、いや、あれは謗法じゃこれは謗法!、そんなことは何ちゃないのよ。
よく問い合わせが来ますけど、あれが謗法これが謗法いうて。結婚やっとした。結婚したら門口に神札が貼っております、(通れません)なんとかなりませんろうかいうて。ワシにそんなこと言うたち力もないし(笑)。何とかするのはそっちや言うて。で、あんたのやないろうと聞いたら、違います言うて。誰の?って聞いたら、舅さんのもので長い間入院しちょります、言うて。それ貼ったら治ると思うとったんやろうかな言うたら、そうに変わりません。それあんたのもんじゃないからなあ、あんたどう思うてるんだ言うたら、私、〇〇〇〇(通っていこうかと)。それで良かろうちうて。あんたのもんじゃないから。また折を見て、御主人に話をして、いらんもんなら除けてしまいなさいと。それは折を見て話すんで。昨日今日一緒になったのにそんなこと言っちゃいかんいうて。特に警察官は。難しいんだよ警察官は。
仏法のいわれが分かってきたら世法もまた仏法かだから。私たちは世法そのものが仏法の在り方をしとるから。そして自分の一念心がどっち向いてるか。これが問題なんだから。幸せになる不幸せになるちうのは周囲の状況じゃないから。実は。非正規社員が問題になっているけど、それは本人自体のありようであって、こんなことを言ったらむごいけれども、叩きつけられても立ち上がろうとする意欲のある者は立ち上がるろう。段ボールなんかかぶって寝ることないで。また故郷があるはずやから。這いまわってでも故郷へ帰ればいいのよ。そんな惨めな思いをするよりか。何かそこにはまだ甘ったるいものが残っとるんじゃないのかね。ひょっとしたらひょっとしたらちうものが。それは本人の心構え。命の働き。そういうもんじゃなかろうかね。だから一面には同情する面も多分にあるけども、一面においてはその本人がどういう考えを持っておるかということ。これが仏法の云々なのよ。だから一番大事なことはね、良くなろう思たらね自分が変わる以外にないよ。自分一つも変わらんとって良くなります言うのはそりゃ無茶というもん。自分自体が変わっていって自分自体が自分との戦いに打ち勝ちながら己を変えていくこと自体が自分を変えていく。そしてその環境が拵(こしら)えられていく。その環境によって我はまたその環境に従(したご)うていくの。依正不二。
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