日常生活が修行
- kisuke1965
- 2022年8月6日
- 読了時間: 7分
更新日:2022年8月15日
初代講頭座談会 2005年8月22日
宗教の話、宗教の話とみなさん思ってるでしょうが。たしかに宗教の話なんだけれど、宗教とはなにかというと生活法なんだよ。はっきり言われてんだよ昔から。生活法って。ところが生活法と言いながら、いつのまにか組織に踊らされてしまう。そしていつのまにかオカルトをやってる。だから生活法ということが頭にカチーンと入っていたらオカルトになるときはすぐわかる。ああこりゃいかんと。生活を放ってしまうから。自分の生活を放ってしまう。子供を放ったらかして会じゃ会じゃと走り回る。亭主を放ったらかして会会いうて走り回る。この痒い痒いと違うで。(笑)。これ完全にオカルト。これ僕がいまここでぎっちり見てるわけだ。毎日。雨が降ろうが何しようが。小さな子供を抱いて、キャーキャー泣きながら、叩きながら連れて行きよるが。それが子供が幸せになると思い込んでる。完全なオカルトだ。気の毒な。見よってね。日が経つにつれ、連れて行くお母さんの顔がヒスってる。厳しくなってる。それからご主人の顔も、ほがらかで行きよる顔じゃない。しょうことなく、虚無的な。自分もなんちゃあない。魂抜けてしまったような顔をして後ろをトボトボと歩いている。これが信心なのかあと見る。僕らから見たら。これなんかもう完全なオカルト。オカルトっていうのは自分のところを大切にするから、他のものは全部悪者にせないかん。こういうことを多少なりとも心得ていらっしゃったらね。自分の生活の中にこういうものを入れないようにできる。ひとたびオカルトに食いつかれるとなかなか出てくることは難しい。みんなから脅かされる。周囲の者から。その人の話、聞きよったらバチが当たる。病気になる。交通事故で死ぬ。私なんぼ言われてきたか。交通事故で死ぬいうて。本当。一年以内に死ぬるぞ言われたで。〇〇シンイチロウなんかに。この人はもう死んでおらんろう。それから岡山の山田徹一。参議院に出ちょった。あれだって。交通事故で死ぬ。柏原ヤスなんか。橋の下の乞食の親分になる。はっきり言うてくれたよ。壇上で。けども、そんなになるどころやない。反対に、大聖人様の教えは生活を確立さすことを教えてくださってる。もうねえ、皆さん方もだいぶ違った話だとわかってきたと思うけれども。本来のご信心の有り様とはこういうものですよと。例えば新池(にいけ)御書にね、五常五戒という御文がでてくる。五常とは、常に私達が日常の生活で守っていかないかんこと。仁義礼智信。五戒はさておいて。この五常の五つ。仁はなに。大慈大悲だろ。思いやり。子供に対しても他人に対してでも何にしても相手のことを思いやっていけれる自分に変わっていかないかんろう。これが一つ。次に義。これは義理を知ってるということでしょ。理(ことわり)を知っている。そして礼が礼節。目上に対するところの礼儀。馴れ合いじゃないが。それから智。前後左右。こうすればどうなるのか。こういうふうな話はどういうふうに言うたらええのか。自分は今どういう立場に置かれておるのか。見抜いていくだけの知恵がいる。そして信。いちばん大事な信。これは寛尊が仰ってる。先の四つがわかっとっても、この信ができてなかったら全部が死ぬると仰っている。だから信仰においても信を一番やかましく言うろう。日常の生活の中で相手を信じて物事ができよるのか。それとも疑ってかかっとるのか。皆さん方お付き合いするときに相手を疑ってかかってお付き合いするか。今の世の中建前と本音が違うからね。これ裏表の話よね。しかし実際は信というものをもって初めてものは成立している。お勤めいかれる方が、自分の勤め先がどんなんなるこんなんなるいうて仕事に行っても面白くないろう。やはり月末になるとお給料くれると思えばこそ行くんで、そのお給料当て込んで計算しとるんで。それもなかったら大変なことになるろう。五常というのは儒教から来ているもんだけども~
(夏の桀、殷の紂の話が続いて)
仏法以前にこういう国があって滅んできた。仏法以前の話なんだけれど、五常五戒を守らなかった姿なんだと。大聖人は教えてくださっている。
今の社会情勢を見ると、無節操な自分さえ良ければという状況になっている。これは教育をやっている為政者の失敗なんだけども。
幸いに私たちはこういう大事なことをちょっぴりちょっぴりだけども教えてもらっている。新聞を読んでも、なんでもう一つ突っ込んだことが言えないのかと思うことがある。仏法から見たならもっと深く突っ込んだことが言える。
反面チョロコイ面がある。これも仕方がない。大聖人は仰ってくださっている。部分的において成道を遂げてるからね。これ分段(ぶんだん)の成仏という。こちらは出来てますけどこちらは全くダメですよ。ある僧侶に言われたことがある。あなた信心するために生まれてきてるんだから信心除けてしまったらなんちゃないだろうって。だから信心だけは誰にも負けん。この信心のお陰で、仏法のお陰で命を永らえている。歳が行くに従ってきて、この仏法の凄さを証明しよる。身口意の三業で証明している。それを皆さん方にもそうなりますよとハッキリ言ってる。そのためにはあなた方修行せないかん。しかし、修行の仕方がわかっていない。どんな修行をすればいいかと聞きもしない。拝むことだけが修行だと思っている。修行という文字。行を修めるだろ。行って何。滝に打たれるが?違うね。この修行はどういう修行。毎日の生活の中において自分がどう心がけておるかというのが修行なんだろう。私達の言ってる修行とは、お数珠持って暇さえあれば御本尊に向かって題目あげなさい。題目の数が多かったらなんとかなっていきます。そんなこと大聖人様は仰っているわけじゃない。日常の生活そのものが修行なんだ。そして、その修業の肝心が御本尊様なんだ。すなわち南無妙法蓮華経と題目をあげた。南無はお任せだね。何に任せるが?妙法蓮華経。妙法蓮華経とは我々の十界互具の生命を文字として表したものがそうなんだろう。我々じゃなしに、日蓮大聖人ご自身の生命を妙法蓮華経と表されている。広く言ったならば大宇宙法界の生命の有り様なんだろう。じゃあ南無といったならば、任す任すと言ってるけども。妙法蓮華経とは生命の本源なんだろう。生命の本源とは清らかなる本源なんだろう。我々自体の命にも清らかなものを持ってるんだろう。人を殺すような悪人でも自分の子供は可愛いろう。これは菩薩界。でも仏界ばかりは現じがたいと大聖人は仰っている。縁に触れないとでない。仏界は。その縁とは妙法蓮華経なの。妙法蓮華経という縁に触れることによっていつの間にか自分自体が仏界を現じているの。その仏界そのものがなにかと言ったならば生命の本源なの。妙法蓮華経。言葉を変えて言うならば因果倶時の一法。言葉を変えて言うならば不思議の一法。言葉を変えて言うならば斯人行世間(しにんぎょうせけん)。一切の闇を照らすところの明かり。衆生の悩みを一切なくしてしまう。あるいは言語道断心行所滅の法。そういうふうな不思議な法を私たちはたもっている。しかし不思議な法をたもっていても我がの修行というものがないかぎりは出てこないんだ。だから日常の生活が修行の場所なんだ。朝晩、手を合わせて南無妙法蓮華経と題目をあげて、清らかな一念をもって、その一日(いちじつ)をどこ行くなりここ行くなりしながらも、こういうとこ来れたが良かったね。自分の力じゃ来れないところへ来らしてもらって良かったねと喜ぶ。自分自体が満足できない状況に置かれとっても、それによって満足できる。自分はこういう果報があったのかと喜べる。常に生きていけれる喜びを持っておれるかどうか。死んだほうがマシよという地獄の命が働いておるあいだは良くならせん。常に喜んで常にありがたかった。いうふうな思いを持って、常に自分自体を振り返ってみながら。自分にどれくらいの福徳果報を備えとったろう。わかるわけなんだ。少なくともキチッと信心して十年十五年経ってから自分の境涯が変わってるか振り返ってご覧。みんな変わってると思う。駆け上がってると思う。駆け上がってくるとちゃんと待ってる。何が待ってると思う?苦難!苦難じゃないんだよ。己の罪障が出てくるんだ。分分に応じて自分の罪業が出てきだす。小さいときはわからない。親の罪障と暮らしているから。大きくなるに従って自分の罪障が出てき始める。自分の罪業によって自分が苦しんでいく。自分の福徳果報によって選ぶ人(結婚相手)も違う。(以下略。今回は打つのに疲れた。面白い話は続くけどね。終了)
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