文上と生活
- kisuke1965
- 2022年7月2日
- 読了時間: 5分
更新日:2022年7月15日
初代講頭座談会 2002年7月18日 (今回は、音声に忠実というよりも、読みやすくしています)
疑問があれば解決させていく。こんな素晴らしい信心しているんだから。大聖人が最蓮房殿におっしゃっている。行者の行いの愚かなることによって功徳が出ないと。素晴らしい法華経をたもっていながらも、むしろ外典をやっている人、すなわち信心していない人よりも見苦しい姿を出す。なぜなんだ。それは大聖人がおっしゃられるように、なんぼええもんだと言っても、その信心をしている人の行いによる。行いが愚か。道理の通らないことを平気でやる。無視する。無茶苦茶をやる。自分の度合いがわからない。自分の力がわからない。わからないのに過信をする。そういうことをやっていく。災いを自ら招いていく。災いとは全部自ら招きよるからね。ひとりでに来るものはないからね。全部自分から招くんでね。招かいでもええもんまで招くからね。
過去からのこともあるんでしょ。←質問者
過去というよりも現在がどうか。そういう(災いを招く)ような言葉が出てくるということは自分自体の命の働き。生命の働き。だからこれをみな、宿業と片付けてしまう。命に宿っている。そういうものが。その本人、その本人がどういう命の働きをしているか。
たとえば、私の知っている人にこういう人がいる。ひとさんのお世話になっても決してお世話になったと言わん。どんなに世話になって、苦しいとこ逃れるようなことがあっても、あの人のおかげでこうなりましたと決して言わん。この人は。それだけならいいけど、まだ大事なことは妙法蓮華経の功徳を頂いても、それは功徳と言わない。当たり前のことだ。あるいは物の順序で偶然こうなったとか、言っとった。あんまり聞き苦しいから注意した。そんなことを言うとったら行き詰む(いきづむ)よ。法を無視するようなことを平気で言うたら行き詰むぞ。どうするつもりだって聞いたら、そんなことはありませんと開き直られたよね。そういうふうななんだから、危険だなと思いながら・・・ものの見事に行き詰んだ。
どんな?←質問者
どんなって。行き詰んだ。
なあ。だから。そういうふうに。これは行者の愚かさ。災いを自らもとめていく。だから、助けてやろうと思っても手が出ない。かえって、(愚かな)ひとのほうから忠告を受ける。講頭さん、気を配る必要はないですよ。けっしてあの人の世話になったと感ずる必要はないですよ。同僚?が助けてるみたいですよ。と言われたことがあるよ。私は。でもそれが末法の人じゃないか。末法の人ってみんながそうで。十人が十人。善人っておらんで。実はね当宗は全部そうだ。善人(がいる)だなんて思っていたら失敗するぜ。一皮剥いたら全部悪人なんだぜ。だから、日有上人の化儀抄にそのことが出てくるんだぜ。僕たちの信心は理論じゃないんだぜ。皆さん方、勉強、勉強ちうてやってるけど勉強じゃないんだぜ。私達の教えることは、あなた方が、どうやったならば大聖人様の、このご信心がまともにできて。どうやったならば信ずることによって直達正観を得て。どうやったならば観心の本尊になっていくのか。ということを教えていくのが私達の信心のありようなの。
パチッ(蚊を叩いた音)。ブーン。あら、逃げた。ごめんなさい。←質問者
だから、座談会というのも勉強と捉えている方がいらっしゃるけれどもぜんぜん違う。だから談義広説本?(だんぎこうせつぼん)じゃいかんと注意されておる。日興上人。だから日有上人の化儀抄にはそのことが注意として出てる。なぜか。本未有善なるが故に、智者学匠のような勉強をしちゃいかん。愚かなるがゆえに大聖人の仏法をどうしたならば信じれるか。いかにして信じれるか。それによって自分自体が直達正観を得るか。それをしなかったら罰を受けると出てるよ。ちゃんと。
だから僕はよく。勉強勉強と勉強やっている人に功徳は出とらへんいうて。むしろ御本尊様御本尊様でやってる人に功徳が出てるって言うのはそのことだよ。御本尊様をピシーっとたもっていける人は功徳が出る。勉強が勉強がとやってると功徳が出ていない。信心なんのためにしてるのかわからない。そしてまた、功徳はどこに出ているのか。空間に出とるんじゃない。山のむこうに出てるわけじゃない。お宅の庭先のいろんなところに出てるわけじゃない。じゃあどこに。功徳があるとかないかは自分の生活じゃないか。
よく僕は言うけど。あなた方、南無妙法蓮華経と題目を上げて世間の法に溶け込んでいけてますかってきくけども。どうでしょう。南無妙法蓮華経と題目を上げて妙法蓮華経そのものが世間の法に溶け込んじょるかね。法華経二十八品たもってる。三大秘法だという妙法蓮華経をたもってる。その姿そのものが(生活に)溶け込んでしまって、どこにたもってるやらたもってないのやら、わからんちゅう姿になっとるろうかね。あくまでも、たもってるたもってるという姿でやっとるんじゃないんかね。それがわかってないと、ご信心の本当のことがわからんよ。
まだ、たもってるたもってるとやってる。。←質問者
それじゃ行住坐臥に法華経を修行しなさいということができんやろ。南無妙法蓮華経と題目を上げて日常生活に溶け込みなさいと言われても、南無妙法蓮華経が溶け込むかえ。
法華経二十八品を文上からよんで、大聖人のご一生からみたときには狂信的なありかたに変わるぜ。信心の有り様、狂うてしまうぜ。昔の昭和何年頃の軍国主義に迎合していくような有り様に変わっていくぜ。満州なんかは日蓮宗によって侵略されたといっしょやないか。だから向こうさんは日蓮宗いうたら反吐が出るほど嫌うじゃないか。曼荼羅見ただけで。大聖人様の仏法は侵略する仏法じゃないんだぜ。大慈大悲の仏法だぜ。ところが文上でよんでいくと、犠牲をしいて本人自体が仏法のために犠牲になって成道を遂げるというあり方を説いているのが法華経二十八品じゃないのかえ。だから日蓮大聖人ご自身が狂信的な存在になってしまうわね。だから文上でよんだ組織はみんな危険なんだ。その証拠に顕正会。文上だから自分の生活は無視されてしまって、飛び回っとったら功徳が出ると教えているのと違うか。創価学会もそうだけど。だから常識のある人は首を傾げる。宗教というのは。佛の教えに争いがあってはいかん。誹謗があってはいかん。怨嫉を持ってはいかん。四つありますけど、それが佛の教えなんだ。
以下略。
参考 キメラ―満州国の肖像 山室信一 中公新書
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