文・義・意
- kisuke1965
- 2020年12月5日
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更新日:2021年1月17日
初代講頭座談会(2001年11月15日)
ある方からこういう話を聞いたのでそのままお伝えする。大石寺のお寺へ行ってる人から、入れ入れ入れとやかましく言われるので、それなら僧侶の話を直接聞きたいとお寺へ行った。その人はなんでそんなに入れ入れというんですかと聞いてみた。ところが僧侶が本音を吐いてしまった。真面目な人なんでね。実は本山の猊下様からのお達しでと。創価学会と大石寺は喧嘩をしておる。信者さんが少なくなってしまった。負けんためにも人数が必要だ。それで信者さんを引っ張っておる。もう一つは本山で戒壇堂などの建物を取り壊している。そのために莫大な費用が必要だ。みなさん方に入ってもらってお金を寄付してもらわないかん。だからやかましく言ってるんだと。それを聞いた途端その人はお断りしますと。○○講の言ってることが正しいとこちらへやってきた。大石寺の方からいろいろ言ってくるとは思うけれども惑わんようにね。
大聖人様のことが分かった分かったいっても、足の親指の爪あたりまでしか分かっていないのではないか。それくらい大聖人様の仏法は奥が深い。誠に意味が、味わいがある。世間の人の中にも大聖人と同じようなことを言ってるのが見受けられる。またそれをやろうとしている。それがうんと見受けられる。私たちはそれより一歩も二歩も先んじている。口にして。実行するのは難しいけどね。御文の中にも文・義・意というのがある。文は文章。私が、学者だったら功徳がでませんよと言ってるのは文章だけにこだわっている人。ちんぷんかんぷんになっていく。御信心のありようが。文・義・意の文に執着して義を失っていく。文によって義を知りなさい。義を知ったなら心(意)をつかみなさい。たとえば「生活」とこういう。私たちは生きておりますから日常のことは生活じゃないかになる。しかし、義を知っていこうというならば、その生活のありようによって病気もし、叶う叶わんもあるし、人さんとのつきあいもあるろうし、いろんな問題が起きてくる。これは義を知っていったときの話。では心(意)はどうなのかといえば、健康体でなければいかんし、幸せでなければならない。目標はここにある。これは心というものをつかもうとしている。この御信心をしていくのでも、文・義・意。文章にこだわるでなしに文章をもって何を言わんとしておるのか。「受持」というたならば、受け持(たも)っておるのだが、その義はどういうことか。日蓮大聖人のおっしゃるままの修行をしなさい。これが受持だろう。その心は受持即観心。成道だろ。大聖人仰せのままいったならばどんな状態でもそのまま成道が遂げられますよということだろう。それを願って僕たちは信心しているわけだろう。それ以外になんちゃないろう。もしそれ以外の思いをもって、自分の名誉欲とかいろんなメンツのことを考えて信心しているのならば邪道だろう。それはもう信心じゃないろう。邪道だから。さっきの坊さんの話も邪道だろう。信者さんの成道なんて考えてないろう。喧嘩に勝たなきゃならん。だから修羅だろう。お金が足らんから信者さんにどんどん入ってもらわなければならない。これ餓鬼道だろう。成仏どこにあるが。これいったい。。これがいまの日蓮正宗の実態。私たちはそういうことのないように。それには寛尊の言葉を用いていかなければならない。分からんことはとことん追求しなければならない。疑問をもたないかん。当宗のありようは、分からんが分からんなりに疑問をもってとことん追求する。分かるまで。そして分かったならば疑いを挟んではいかん。ただし聞いたことをすぐ人にペラペラと喋ってはいけない。話を聞いたら自ら実行してみる。やってみたらこういう答えが出てきた。自分で掴んでみる。そうして初めて聞いたことが分かる。それから人さんに話をしても何ら遅くはない。
寛尊が仰っている。本当の折伏とは、自分が南無妙法蓮華経と題目をあげ御本尊の功徳を感じとって自分自体に徳がついていく、果報がついたその姿で無言で相手に接していく。その姿をもって御信心をさせていきなさい。これが本物の折伏だ。
己に対する折伏とは。寛尊仰せに曰く、折伏とはまず己に向けるべきことを説かれているんだ。つまり宗祖日蓮大聖人の仏法を心より信じ、御本尊に向かい南無妙法蓮華経と唱え、虚心坦懐に我が心の煩悩を見つめ、それに妥協せず破折することこそが己に対する折伏。次に、折伏したとき自分がそれをできておるかどうか反省してみる。折伏は実は大聖人様しかできない。我々は無言においてその姿を以て示し、信仰に自覚することが本当の折伏なんだ。信心において本当にそうだと自覚してきた。それが折伏なんだ。相手に対して無言なんだ。無言の中にこの信心は素晴らしいということを見せていくんだよ。
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