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折伏は自分に

  • kisuke1965
  • 2020年12月5日
  • 読了時間: 2分

更新日:2023年3月4日

初代講頭座談会(2006年9月26日)

仏法とは生活法なんですよ。ご家庭の中で信心のことでもめることがあったら、その信心は誤っているんですよ。ご家庭で決して信心のことでもめてはいけない。自分のやるべきことを捨ててしもうて、信心だ信心だと走り回ってはいけない。それは僧侶のすることであってね。在家の我々がするべきことではない。ビシッと足を大地につけて自分の生活を見ながらなにをせないかんのか、どうせないかんのかを習っていくのが仏法なんですよ。

よく信心信心いうて、主人が拝まんから子供がどうこうだから、(信心しなさい)言うたらケンカになりましてと。魔の所為でしょうかと問い合わせがあるが。魔の所為なんて自分の疑心暗鬼からきてるから。魔障なんてありませんから。自分自体の命の働きが魔障になっていますから。それを克服するのが折伏だから。

日寛上人は折伏は自分に向けるもので外に向けるものではないという。全部自分に向けなければいけない。御本尊のすごさを忘れて、仕事に悩んで、自分がオロオロしているときはどういう状況に落ち込むのか。病気で医者からなんともならんと言われた時に地獄の境涯に落ち込んでいる。そういう時に折伏を自分に向けとらないかん。ところが、いつから誤ったかしらんが全部外へ向いてしまった。それをするのは日蓮大聖人ただお一人だけなんだ。在家の我々は真似をしてはいけない。混乱して滅茶苦茶になる。自分の生活を真剣に考えて、自分のありようがどうなっているのかを考え、そして自分の姿を見せて。この妙法蓮華経で成道をとげるということはどういうことかを見せていく。それが折伏なんだと寛尊は説かれている。

 
 
 

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