戒定恵の三学(再び)
- kisuke1965
- 2024年8月3日
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2002年8月8日 初代講頭座談会より
注:毎月、過去のその月の座談会を聞いて掲載してますが、8月は盆だからか座談会の回数が少ない。以前、この座談会は掲載しましたがもう一度掲載します。昔は分かりやすく直してたけど、今はなるべく録音どおりです。
南無妙法蓮華経が別個にあって、それを別個のものをうちくって持ってきて、自分が食べることによって何とかうまい具合にいくという錯覚を起こしているんじゃなかろうか。別個にあるという。そうでなしに、自分そのものが妙法蓮華経であるというふうに絶えず言ってるわけなんだが、それがまだ実感として分かってないような。だから南無妙法蓮華経と題目をあげるんであるならば即身成仏、直達正観と言おうか、観心の本尊というふうに言葉は使われてるけども、南無妙法蓮華経と題目をあげることによって、直ちに自分自体が妙法蓮華経也ととれれる自分になっているかどうか。そういう点において、まだまだ不安をうんと感じるがね。そうせんと、なぜこれ僕が言うかなっていうならばカルト教団になってしまう。これが分かってないと。カルト教団ていうのは教祖さんがおって。オカルト。ねえ。オカルト式にやってきて。ようするに教祖の言うとおりでなかったらいかんぞというふうなやり方をする。そうすると日蓮正宗というのはどうもそういうふうな傾向が昔からあったらしい。今になってじゃないけどもね。ところが今、あの、盛んにそういうふうなことをやんやんやんやん言ってるのは阿部さんなんだけども。そういうことで、その、カルト教団じゃないから。だから寛尊の御言葉をもって言うなれば、疑うだけ疑っていく。ええですね。疑うだけ疑う。疑ってのちにその疑いが晴れたなればそれは信じていく。ところが信じる限りにおいては、疑いを晴らして、そして信ずるんですから、とことん今度は信じていく。だから疑うなじゃない。疑ってかかれ。はじめは疑ってかかる。何回も何回も疑ってみる。
たとえばね。僕の何で言ったらね。僕は立正安国論の勉強をね、ずーっと昔からやらしてもろた。17歳のころから。あの長い文章をそらででも覚えとった。そして講義をずーっと聞いとったから。ところがそのありようというものが(創価学会、顕正会の講義と住職のいうことと)違う。それでそのありようを、なんちうかね、あのー、解決するためにやはり聞かないかん。そうすると何回も何回も何回も何回も聞いた。ほたら住職のほうがもうしんどいっちゅうか、またかっていうなんで。それでもまだ聞いた。聞いて聞いてとことんまで聞いた。そして立正安国論そのものは国家諌暁の書といってるけども、実は国家諌暁の書であるような状態であるけども、自分自体のための立正安国論なんだというとこまできた。終いのほうにその文章ありますけどもね。そういうふうに立正安国論、己を折伏しておるんだ、いうふうなことがはっきりといわれてきた。そこまできて初めて立正安国論というものが大聖人がどういうわけで説かれたのか、いうふうなことがね、ほぼ分かってきた。そうかといって人さんにそういう話をしなさいということはとてもよう言わん。全く違うありようになってきた。そうするとオカルト教団で聞いている者と全く違ってくる。大聖人の法というものが。
だから、もうひとつみなさん方に、感ずるところはね。もしも南無妙法蓮華経。あのー、大聖人の法華経というものだけでとっていくんじゃったならば気違い的な信心のありように変わってしまう。どうだろうね。家庭を捨ててしもうて、気違いのように飛び回って、折伏だあ折伏だあって、人の迷惑を考えるもんじゃない。病人さんがあればそこへ乗り込んで行って、それ信心しろ信心しろ、罰が当たったということを平気でやるんとちゃうんかな。そして人の迷惑などお構いなし、朝だろうが何だろうが喚き散らしてやってる。これが大聖人の仏法だと、こう言う。確かに大聖人様の仏法には間違いない。法華経二十八品にはそれがでてくるから。全部。そのとおりだって。ところが残念ながら欠けているものがある。その欠けてるものは誰もせん。これは。それは何が欠けてるかと言ったら戒定恵が欠けてる。戒定恵が。ですから戒定恵の三学がこれに付随してきたならば、法華経二十八品、南無妙法蓮華経そのものは固有の姿というものは自分たちの生活の中に埋没してしまう。埋没してしまうから生活そのものの中においてこの法華経そのものは生きておるけども、際立って外へ出てきてこれが信心でございましてこれが信心でございますというものは何にもない。それが出とるのはおかしい。あくまでもこれは自分の生活の中に法華経二十八品が溶け込んどらないかん。溶け込んでしまう。溶け込んでしまうということが戒定恵の三学なんだ。これが溶け込んでなかったならば気違いじみた信心に変わってしまう。これはもうカルト教団と同(おんな)しになってしまう。だから溶け込んでないから所々によっていさかいを生ずる。要するにもう常識を失したあり方になっていく。そして自分だけが要するに悪口を言われたら罪障消滅だなんて経文にあるぞと、なんて言ってる。大聖人はそんなこと何ちゃ仰っとらん。全く違った生き方に変わる。こういうふうなことが、もうひとつみなさん方が真剣に取り組んでいただく。ね。そういうわけで、それぞれのグループグループによってやっておりますけども御信心をひとつ固めてもらって。みなさん方はよくよく掴んで。ひとつ自分の生活に信心というものを生かしてもらいたい。生かさなかったら意味がないろう。信心したって価値がないからね。
先だってもある人と電話した。功徳が云々ちうから、功徳どこに出てるのと聞いてみた。あなた方が言ってる功徳は一体どこに出てるのと言うたら。いや病気が治って家庭の状態が変わってきて。それからって聞いたら、なんやぶつぶつぶつぶつ言いよった。そうかえ言うて。ほたら自分自体はって言うたら。自分自体は当たり前のことですなあって言っとった。それじゃ一つも変わってないじゃないの。あなた何年信心したのと聞いてみたら。足掛け二十何年。二十何年でそれじゃったら一つも功徳出とらせんじゃないのと言うたら。いや出とります、家庭が変わりました。どんなに変わったか言うたらぶつぶつぶつぶつ言うとった。うん。ね。これが信心だあ信心だあとやっている人の姿。だから人のことは平気で悪口雑言は言う。気が向かなかったらものも言わん。いうふうなことを平気でやりだす。これ信心じゃないから。そうじゃない。戒定恵の三学ということが分かってくるとそれは自分の家庭の中にきちーっと溶け込んで、家庭じゃない、仕事の上においてそれが出とらないかん。それが大聖人の仏法なんだ。ね。いま言ってるのは、堀日亨上人猊下様の御指南だ。こういうふうな大事な御指南がある。そしてまた寛尊の御指南にも戒定恵の三学は出てくる。だからいま本門講において戒定恵の三学をやかましくいってる。でなかったら生活できなくなるよ。信心だあ信心だいうて飛び回りよったら。飛び回られんで。信心信心いうて。私たちは在家だから坊主と違うから。友達見たら折伏だあってやったらいかんぜ。やりなさんなよ。折伏っていうことはね、別の言葉で仰ったらねえ。別にどう仰ってるかいうたらねえ、こういうふうなことを仰っています。ね。本当に信心をする。してる。じゃ、してる者が法華経の信心をしてる者がまず実践をする。経文にのっとってまず実践をして。その実践をする身をもって読むことによって、その味わいを持ったならば、それをもって信心を分かってない、してない人に接していく。そして、その自分の姿をもって信心をしてない人を教えてやる。これが法華経を信心している人のありようですよ、という。いうことです。
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さて、あの。あなた。
えーっと。どういう場所に行っても御本尊のことを忘れずに。できるだけ縁に触れないと、あの、ちょっと忘れてしまうところが私、そういうの実感してて。やっぱり、こう、話を聞かないとなんか、やっぱりちょっと違う方向に行ってるような気がして。それでまた話を聞いてまた戻って、という繰り返しなんです。だからやっぱりその、縁するということがちょっと大事だけども、すぐにそういう環境じゃないときに、どういうふうに。たとえばあの、体験。いろんなところに行ったときにいろんな体験お持ちだと思うんですけど。
あのね。たとえばね、あの、今回ね、あの、帰られたらアメリカのほうへ行かれますね。ね。そうするとね、一年でも二年でも、あの、出向させられるわけですから。ね。そうしたときに、そこへ行ったこと自体が有難いと思うこと自体が御信心。ね。なんでこんなとこ来ないかんぞ、なんちことでねアメリカまで来ないかんぞ、いうんじゃなしにね。アメリカまでさせてもらった。公費をもって。ね。そして見学もさせてもらえる。楽しうできる。いうことから考えても幸せなことだよね。ま、それは別の問題だけども。いかなることであってもその存在に対しては。ね。良かったという思い。その境涯に溶け込んでいけれる自分になることが大事だ。境地冥合というはそういうことだ。いかなる境涯であってもその境涯に自分が溶け込んでいけれる自分かどうか。ね。その喜びというものがなかったならば、境地冥合、境地冥合いうてもただ御本尊様との境地冥合だけのように思てるけども、妙法蓮華経そのものは十界三千のあらゆる姿の総体が南無妙法蓮華経だよ。で、あなたが本当に御本尊様のことを忘れんちうんやったならば、自分自体がこうやってやってること自体が有難いっ、ちう思いがあるんであったならば御本尊のことは忘れてない人だ。うん。けども自分のやってることに不平をもち、自分のやってることに愚痴をこぼし、自分のやってることがもっとええもんがあるじゃろうて高望みしていくんじゃったら、これ御本尊の功徳が一つも分かってない人だ。御本尊様の功徳と言うんじゃったなら境地冥合しとらないかん。いかなる境涯においても自分の知恵というのをもってきて、自分のありようというものは、ねえ、そこにピシッと合(お)うていく。苦しい境涯であるならその苦しい境涯の中において自分がそれやり抜いていこうという勇気というものを起こせるような自分かどうか。ね。だから向こうにおいて、こうやってやらしてもらえる、有難いことだ。ね。元気で日本に帰るまではつつがなくやっていかないかん。大聖人に申し訳がない。こういう思いをもって南無妙法蓮華経と朝、題目をあげたらあとは仕事に真剣に取り組んで。おうちの中においては真剣な思いをもってやりくり算段をしながらピシッと構えて。ね。日本に帰ってこれる日まで楽しみにしながらやっていく。希望を持ちながら。帰ってきたならばまたどういう境涯に変わっていくかな。そういうふうな思いをもってやっていくこと自体が大聖人の仏法をたもっている人なんですよ。
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