戒定恵の三学
- kisuke1965
- 2024年5月6日
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更新日:2024年5月10日
初代講頭座談会 2006年5月16日
報恩抄、開目抄。外典三千、戒定恵の三学を仏法に注入されている。あるいは孔子の教え老孟の教えを仏法に注入していく。それがなかったらガツガツしたところの宗教になってしもうてインドのヒンズー教だとかイスラム原理主義だとか、おかしげな宗教になっちゃう。今の日蓮正宗だとか、むしろ真言念仏の方がなお良いけども。なぜ日蓮正宗ちうのが、ガツガツして修羅みたいなもので人間としてのなにがなくなってしまったかというと戒定恵の三学がなくなったからよ。これを教えてないからよ。およそ南無妙法蓮華経とは戒定恵の三学をいうんだから。それを三大秘法三大秘法っていうのは実は戒定恵の三学のことをいってるんだから。そのことちゃんと御書に出てくる。それがいつの間にか三大秘法三大秘法と騒ぎまわってるけども。三大秘法とは何かといったら戒定恵の三学なの。だから信心をしとる者が、常に相手のことを思うて、常にそこにはキチっとした態度をとって。そういうふうなことが(御書に)でてくる。それは戒定恵の三学が分かってきたからできだした。それが信心だから、法を教えないかんから。相手が迷惑しようがどうしようが2時間も3時間も居座ってる。帰ってくれ言われても垣根かきついて帰らない。表で悪口吐いてる。これが今の日蓮正宗の実態じゃんか。情けないけども。これで正しいと言えれるかい。そんなことで。だから、なんで正しいんですかと聞いたら、正しいものは正しいんだと力むから。言いようがないんだよ。大聖人様の仏法はそんなものじゃないんだよ。滅茶滅茶になってる。そういう信心をしていくと自分自体が行き詰むでくる。人には嫌われ出す。どんな人であっても嫌われる。都合がええことはペラペラペラペラ言うけれど、都合が悪くなったら世話になった人でもへっち向いてしまう。これが今の日蓮正宗をやってる人の姿勢じゃない。本門講は、の(除)いていっても、いつ帰ってきても構わんようにしてあげてるよ。のいた。砂をぶっかけて出ていく人も。本門講としては何ちゃ言わん。いつ帰ってきても、よう帰ってきたねえ。だから何人帰ってきてる。20年来おらなんだ人が帰ってきてるよ。信心させてください言うて。それは信心ちうのは自分の命だから。ましてや妙法蓮華経は一切のものだから。これが本当の大聖人様の仏法だよ。全く違う。大聖人様が仰るようにここ(頭)じゃ功徳は出ないんだよ。実際において行動せんことには。
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