戒定恵の三学
- kisuke1965
- 2020年12月5日
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更新日:2021年1月11日
2002年8月8日 初代講頭座談会より
みなさんは南無妙法蓮華経が別個にあるという感覚がまだまだあるのではないか。自分そのものが妙法蓮華経であるととれれる自分になっているかどうか。南無妙法蓮華経と題目をあげることによって、観心の本尊といわれているが、直ちに自分自体が妙法蓮華経也ととれれる自分になっているか。それが分かっていないとカルト教団になってしまう。教祖の言うとおりの信心になってしまう。今の日蓮正宗がそうだ。
立正安国論。国家諌暁の書といわれているが、自分自体のための立正安国論なんだ。終わりのほうに書かれているが、己を折伏しているんだ。そうなるとオカルト教団で聞いている者と全く違ってくる。大聖人の法というものが。
もうひとつ、大聖人の仏法を法華経というものだけでとらえると気違いじみたものになる。家庭を捨ててしもうて、折伏だあ折伏だあと飛び回って、人の迷惑を考えるもんじゃない。病人さんがいると聞けばそこへ乗り込んで行って、それ信心しろ信心しろと平気でやるんじゃないのか。法華経二十八品にはそう説かれているから。ところが残念ながら欠けているものがある。戒定恵が欠けている。戒定恵の三学が付随してきたときには、法華経、南無妙法蓮華経そのものは自分たちの生活の中に埋没してしまう。生活そのものの中に法華経は生きておるけれども、外へ出てきてこれが信心でございましてというのは何にもない。それが出ているのはおかしい。あくまでも自分の生活の中に法華経二十八品が溶け込んでしまう。溶け込んでしまうことが戒定恵の三学なんだ。これが溶け込んでなかったら気違いじみた信心に変わってしまう。これはもうカルト教団と同じになってしまう。溶け込んでないから常軌を逸したありようになっている。悪口を言われたら罪障消滅だなんて。大聖人は一言も仰っていない、自分の生活に信心を生かしてもらいたい。生かさなかったら意味がない。
先だってもある人と電話したが。功徳云々というから、功徳どこに出てるのと聞いたら。いや病気が治って家庭の状態が変わってきて。それからと聞いたら、なんやらぶつぶつ言っていたが。それなら自分自体はと聞いたら。自分自体は当たり前のことですなあと言っておったが。それじゃ何一つ変わってないじゃないか、あなた何年信心したのと聞いてみたら。足掛け二十何年。それじゃあ何にも変わってないじゃないの、功徳出てないじゃないのと。いや功徳は出ています、家庭がどうのとぶつぶつ言っておったが、これが信心だあ信心だあとやっている人の姿。だから人のことは平気で悪口雑言は言う。嫌いであったらものも言わん。平気でやりだす。これ信心じゃないから。戒定恵の三学ということが分かってくると仕事の上にきちんとでとらないかん。それが大聖人の仏法。
これは、堀日亨上人猊下様の御指南。寛尊の御指南にも戒定恵の三学は出てくる。いま講においては戒定恵の三学をやかましくいってる。でなかったら生活できなくなるよ。信心だあ信心だと飛び回られんで。私たちは在家であって坊主と違うから。友達見たら折伏だあってやっちゃいかんで。やりなさんなよ。折伏というものは別の言葉でいうなら、法華経の信心をしている者がまず実践をする。身をもって読むことによって、その姿を持って信心をしていない人に接していく。教えていく。これが法華経を信心している人のありようですよ。
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変わっていない、功徳が出ていないとは、功徳がどうこうと言う姿がおかしいじゃないのということ。でしょう。
最近は、リンク先のブログがメインになってきて。。このサイトは初代講頭の座談会でしのいでいるなあ。
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