成仏の二字
- kisuke1965
- 2022年5月7日
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更新日:2022年7月3日
初代講頭座談会 2002年5月13日
だから、本当にご信心をしていくっちゅうなことは、色んな面において長けてこないかんわけで。信心をしたきいうて、それだけのこんなちっぽけなもんじゃないから。信心をすればするほどに長けてきた。本当の功徳っていうのは、大聖人様が仰っしゃられるように、所詮は。弘安三年に仰ってる言葉がある。「所詮は成仏の二字を教えるためにいろんなことを言うてきたんですよ」という言葉があるじゃないの。「在々所々において。いろんな法門を解き明かして。いろんなことを言うたけども。所詮は成仏の二字。これを教えるためだ」と仰ってる。大聖人はっきりと。この、たったの。短いお言葉によって。今までの大聖人様、ずーっとご在世のときの話というのは全部打ち切ってしまっている。たったこれだけだ。成仏の二字を教えるためだ。じゃあ、成仏とは一体何なんだ。法華三昧(ほっけさんまい)だろう。成仏は。お金ができました。品物が増えました。家ができました。それでええけども。けども自分の果報がなくなってしまったら。お金によって自分が飲まれてしまうで。果報がある時の話で。果報がなくなってきたら、金を持ったことによって、その金によって自分の命を断つこともあるんで。飲まれてしまうで自分自体が。あるいは家ができた。それによって自分が飲まれ込んでしまうで。うーん。怖いで。果報がなくなってくると。そういうふうなことを考えてなく、ただ物ができることになっていく、欲望の信心をしている人はそれだけだ。お構いなしに。それによって自分が苦しみを、患いを(持っていることに)気が付かない。大聖人そんなこと(ちっとも)教えておらん。苦しみは苦しみ。楽は楽。苦しみと楽と、正直に見つめとったらええ。苦しいなと、それでええんじゃ。病気だなと。それでええん。病気だ。それから。みんな流転が始まる。病気。ああ、病気だなと。それだけでええ。あるがままにいたら。死ぬが、生きるが。自然に任せましょうと。一切を自然に任せていきましょうと。じゃったら悠々としてるけど。お、病気した。こんなことじゃ困る。なんとかせないかん。あっちの医者がどう。こっちの医者がどう。流転が始まる。それよりも南無妙法蓮華経。死ぬるか生きるかは妙法蓮華経じゃないか。それだけの気持ちやったら流転もなんにもない。流転がないということは成道を遂げとるちうことなの。そういうふうにね。まだ流転だとか還滅門(げんめつもん)だとかいう話しあんまりしてないから、ちょっとピンとこんと思いますけども。だからお互いに、この、世間においていろんな。秋が来た春が来たいうて言いながらも。ええ気持ちですねえは流転も何にもせんけども。本当にあるがままに受け取るから、ええなあ、ええ気候はとこうなる。あるがままだから。ところが流転が始まると怖いんだよ。来た。早(は)よ、やっちょかなまた雨が降る。家の中乾燥させちょかないかん。なんぼ信心の話し聞かんでも家が壊れるもんか。早よ帰って。今回は会合(帰ろうか)。流転が始まる。そうなってくると腰が落ち着かん。そればっかし見ないかん。帰るまで。天気かなあ、どうかなあ思うて。これは流転してる。この人は。天気なら天気。とってしもうたらもうそれで終わり。天気だなあ。ええ天気。これによって自分は悠々として生活させてもらおう。気持ちのええ。これによっていこう。いうふうなその天気に飲まれていく自分に変わっていけれる。成道を遂げている。この人は。そうするとこの人は本当のことが見える。流転しとらんけん。ところが流転をしとる人には本当のことは見えん。そうだろう。以下略。
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