心行所滅・言語道断
- kisuke1965
- 2023年7月1日
- 読了時間: 8分
初代講頭座談会 2004年7月15日
みなさん方が来られるということで、やはり高知の方もこうやって縁に触れて、信心の話をしようというふうにまた来ていただいてますが。いかん時にはいかんいうて、言うてくださったら松山だけでしますので遠慮なく言うてください。(みんな笑)。それから遠方であっても心がここにあるというんであるならば一っつも遠方は遠方でない。これは法句経という文の中にそのことを明かされている。しかし歩いて5分10分のとこであっても心ここにあらずというふうになったときにはその人は遠方におる。遠方なの。だからそういうふうに遠い近いというものは実際においては距離がありますけども、真実近い遠いということになるのはその人の一念心のありようなの。ですから発心真実にして功徳なお多しという言葉がある。発心真実ということは、法門を聞いた、話を聞いたからやろかというのは発心真実じゃない。これは聞いたことによって信心をしよかというただの思い。ですからこのことを寛尊は、「信似(?)」。信じてるように見えるだけなんですよ。不信。ところが発心というのは心から、聞いたことによってこれはダメだった。こんな信心ではとてもじゃないということに気がついて、自分が真心から求めて信心をしようと、これが発心真実なの。こういうふうな命が働き始めてきたならば、事実妙法蓮華経の不可思議っていうものは目の前にちゃんとある。現証として出てくる。それは何回も何回も繰り返してみなさん方に話しますけど、心行所滅・言語道断という言葉がある。心行所滅ということは、もう心でなんぼ考えても分かるようなもんじゃない。なんぼ心を働かして原因結果を見つけながら一生懸命でこうだとかああだとか考えても分かるもんじゃない。そして言語道断。言葉によって表すこともできない。どういう言葉使っていいか分からない。こういうふうな状態が起きてくる。これは大聖人様は心行所滅・言語道断。あるいは言語道断・心行所滅というふうにお教えくださってる。これは何かっ、と言いましたならば、そういうふうな状態にその本人がなった時点において、間際なんですね。もうこれは一切が分からない。世の中って不思議なもんだなあ。われわれの知恵ではどうしても判断できんが。なるようにしかなるまいかねえというふうな思いをもって妙法蓮華経を信じ切れたときは、これ発心なの。発心。その本人そのものが法の体。法の体。ようするに大宇宙法界の法の体。すなわち生命体。何と言いますか、仏っ、というふうに言われますけどもね。そういうふうな状態に変化している。ところが本人自体は人間ですからお互いが。そんな風に見えない。当たり前に見えるけども、なんであの人落ち着いたもんだろうかな。あんな状態に置かれとるのに平気の平左でおれれるなというふうな不思議な姿を見せる。それは何かと言ったならば。そういうものを感じ取っている。感じ取ったがゆえにその人そのものはすでに仏という姿を現している。その時に現証が現れる。そのことをはっきり仰っている。今まで僕は心行所滅・言語道断の話。それからさっきは皆さん方にはどこまで信じ切れれるかなっちうふうに思えて。。それで信じ切ったならば否応なしに。僕らがベラベラ言わいでも現証は出るんだがな。常に言ってきた。不思議なんですよ不思議なんですよって言ってきた。それはそれができた人が出来る。ところが残念ながら私たちは、お互いにですけども、生まれてる場所はどこかっていったら愛欲のど真ん中に生まれてる。欲は深い。儲かりたい。人よりか良くなりたい。自分の願いはこうなりたい。なりたいなりたいなりたいづくし。そして持ってる物は、いらん物はだんだんだんだん処分するけども、欲しい物は大事な物はとことん、使いもせんけども大事に大事に置いてある。タンスの中にいっぱい入っちゅう。使いもしませんけんどもいうて。新しい物がいっぱいある。みんなあるろう?そういう愛欲の世の中といわれてますけどもね。そして僕たちはそういう中で一人生まれてきて、そして一人死んでいく。そして一人来た。そしてまた一人去っていく。これが実際の世の中だ。そういう世の中において、じゃあ嫌なことがあるからって、あんた代わってくださいちうわけにはいかん。もう否応なしに正面切って戦わないかんのは自分しかない。どんなことがあっても逃げるわけにはいかん。逃げても逃げても追っかけられる。何とかならんろうか何とかならんろうかいうて泣き言を言って逃げ回ったとこで何ともならん。結局は自分がやらな、事は済まん。そして自分自体が地獄を味わうか極楽を味わうかは自分がやらないかん。そういうことをよーく心得とらないかん。だからこれに対して大聖人様は何を教えてくださっているかというたならば、自分自体が福運果報といったものを身に着けたならば決して負けるものはないと仰る。これをまた別の言葉で言ったならばてんしゃく(天酌?)という。天酌ということは天によって授かった一つのその人の運命。福運果報というんです。これはねえ、生涯通じて来世にも通ずる、再来世にも通ずる。減ることはない。その人が減さん限りは。ずーっとつきます。そしてその人を助けていく。これを天酌という。オギャーっと生まれた時点から備わっている。前世においてよほどの福運を積んだ人。ところが反対やないけどね、人酌というのがある。人酌というのは何かって言うならば、人がこしらえている。あの人はようやってくれる。じゃあひとつあの人を課長にしようか。あの人はようやってくれる。店長にしようか。いや、あのひとは良く何してくれる。だからもっともっと、支店長に抜擢しようか。あるいは、あれはダメだから降格しようか。これは人が決める。ゆえにこれを人酌という。人が決めておる。ところが天酌というのは人が決めるわけにはいかん。これは持って生まれてるから。そういう福運果報というもの。だからみなさん方はその福運果報みんな持ってる。そういうことが説かれてる。みんなあるっちゅうて。あるんだけども残念ながら目先の欲にこだわってるから分かってないちうて。情けないことだけども。そうと、仰ってる。これ私が言ってんじゃない。説かれてある。だからそういうふうなことなんで、みなさん方がそういうふうな福運果報というものを身につけておりながらなんで分からんのだろう。分からん理由がある。それは何か。目先の欲にたぶらかされてしまってる。本当のことが見えない。だからダメなんだ。だからその証拠として大聖人仰せの道理に合った自分の生活をやってごらんなさいと。否応なしにその福運果報が出てきますよと仰ってくださってる。道理に合(お)うたことをやってみたならば。道理に合うとはどういうこと。笑顔だろ。毎日毎日笑顔だろ。毎日毎日有難いな。笑顔のある人有難いな言うけども、苦虫つぶしよったら。不足たらたらの。笑いながら不足言うて怒っとる人おるかい?笑いながら。おらんろう。ニコニコ笑っとる人はみんな有難いな有り難いな言う人ばっかしよ。ケンカしとっても笑ってる人のケンカはケンカにならんろ。そうしてみると本当の喜びっていうのはどこにあるか。顔に出てくるろう。喜び。そして一番大事なことはねえ。報恩感謝だろう。物事のねえ、一番のねえ、根本要(かなめ)をなすものはねえ。有難いちうのは何か。あの方々のおかげでこうなってんじゃないか。その報恩感謝の何は、一番どこにある。家じゃろう。お互いが。家の中にデンとしてあるんじゃろ。まず第一番は両親だろ。両親がなかったらお互いに何ができるの。今日(こんにち)おれれんよ。そういうこと考えたら一番のね、報恩すべきは両親なんだ。だからそのこと涅槃経にもちゃーんと説かれて大聖人も仰ってる。だから報恩を忘れてしまっては犬畜生にも劣ると。人間じゃない。そういうこと知らん者は。ところが今はそれが多い。報恩感謝がない。一番大事なことはこれから始まってる。これから始まる。だから親を大事に思う。亡くなった親を追善供養していく。こういうことをキチっとやれてる人は菩薩道を修行してると同(おんな)し功徳があるとまで言われてる。はっきり言える。これは。だからその根本要。僕たちは南無妙法蓮華経と題目をあげてる。こういうことをキチーキチーっとやっていけれる人は福運果報どんどん出だす。だからねインチキ宗教じゃないから。僕はいつも言ってるように、自分自体のね。体っちうのはね、てんしょうちだい(これ以前もあったなあ。どんな字だっけ?)天祥地大だから。自分の命とは法性だから。そうやって見たときにはねえ。ものすごいものがある。ちっぽけなもんじゃない。ものすごい福運を持ってる。その福運が目先のことに紛動されて、ただ儲ける儲けんの欲の皮突っ張ったようなことをやって、人生わずかしかない。わずかしかない人生の中で何をガタガタガタガタ言わないかん?無けりゃ無いなり。へーへーへーと笑える自分に変わらにゃいかん。無いけん、どうしよこうしよう、やない。無かったら無いで、悠々と構えこめる自分に変わっとらないかん。そういうふうにね、ひとつ南無妙法蓮華経と題目をあげるということはそういうことを心得てくださいよということを言ってるわけだ。話が跳び跳びしよるんで、得難い聞き難い点があると思いますけども、僕だけしゃべるわけにはいかんのでみなさん方もどんどん質問してくだされば。
コメント