御本尊様を信じ切れた人は強い
- kisuke1965
- 2021年11月7日
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更新日:2021年12月5日
初代講頭座談会 2007年11月12日
質問者→大丈夫かなあと不安になる気持ちと、いや頑張るぞという二つの気持ちがある。でも頑張るぞと思ってもそういかないときがある。どうしたらいいですか。
我、無関心でおるんだよ。たとえば、そこにヘビがおる。裏山にハメ(マムシ)に注意!と看板が出てる。でも、そのことを知らない人は怖くないろう。平気でどこでも行けるろう。知った者は怖いけんよう行かんろう。ということは知るということは己を守る本能が働く。知るということは善悪を含めて知ってるということやから。もし悪のほうだけ知って善を知らない人は、あの人は何ちゃ知らんねと指さされてもおかしくないわね。ところが善のことだけ知って悪を知らない人は、お人好しも過ぎるねとなる。ということは知るということは全体を知っとることが知るということだろ。そうするとあなた自体が一つのことをやっていこうとしても知ることは大事なんだけども、それはあくまでも自分自体が知ることによって難を防ぎ、仏法の言葉では悪をとどめて善を推し進めていくという意味合いに変わるわね。ところが人の命には欲望がある。こういうものがあります。見ただけで、ああ、ええ物がありますねと、これでとどまってしまえばしやすいんだよ。ところがちょうどその人がそういうふうな品物に欲望が働いている人ならば、ええ物があるな、金子(きんす)どれくらいだろう、自分の懐勘定して、もうちょっとまからんかいな、あるいはまからんでも自分の金子で何とかいきゃせんだろうか、と無理をするというふうな状況でね。欲望が働くことによって自分の苦しみが起きるわけ。ところが関心のない人は、そんなお金で、と終わっとらいね。こういう生命の働きというものをお互いが考えてみる必要がある。しかし日常生活の中で瞬間にこんなことを考えるのは難しい。刹那刹那で生活してるから。
一番ええ方法は知っとって無関心でおれれる自分になることだろ。肝心要の時には動けばいいわけだろ。ここ一番というときに動けば。こっちから見てる人にすると賢い人だな。余裕を持って動いている人に見えるわけよ。それはこういうことを理解して行動してる人なのよ。何か言うとすぐ跳ね繰り返るような人、売り言葉に買い言葉のような人は、一言いうとなんぞねっちゅうて肩をいからかす人は相手にできんろう。余裕のある人から見るとバカと違うのあの人ってなるやろ。
これを一切ひっくるめてできる方法は何かというたら題目しかない。お題目をあげてきちっとしとる人はそれができてるんだ全部。自分じゃ分からんかも(しれんが)全部できてるんだよ。自分自体が南無妙法蓮華経と題目をあげてるんだと、自分自身が妙法蓮華経ということに対して分からんなりにも成仏の法だと信が構成される。バタバタすることないじゃないか。悠々と構え込んじょったらええやんか。周囲の人が見とって、いやーあの人はじーっと考え込んじょったら、先をちゃんと見とるなとなる。妙法蓮華経を信じれてる人はそれができてるのよ。信じれない人はすぐにバタバタして、あー言うたこー言うた、あーなったこうなった言うて、どうしたらええろう、そんなんばっかし言うとる。これ方法論いう。方法論使うてうまい具合行った人は誰っちゃおらんのよ。方法論使う場合はその本人の果報の問題なのよ。命につけた癖。そういうものが方法論として姿を変えて出てくるのよ。二つに分けたならば善悪。また別には損か得か。
だから僕がしょっちゅう言ってるのは、本当に妙法蓮華経、御本尊が信じれた人にはバタつきはない。なぜかいったら妙法は不思議の一法なんだから。これは体験せな分かりませんよと口癖のように言ってるわけなんだ。それを味おうてきた人は、力というものは我は想像できない力が不思議としか言いようのない力が出てくるから。その力を発揮さす方法はどこにあるかちうことまで知ってるから。その力を発揮さすためには自分がどうしたらいいか。自分自体をじーっと自省さすわけだよ。それは妙法蓮華経を信じれているからできてるわけなんだ。信じ切れてない人は、こんなんなったらどうしよう、あんなんなったら誰かに言われる、、どうしたらええろう、こうやったらこうなった大損する。そんなことばっかし言っとるのよ。それはここ(頭)働きよる人よ。私の言ってるのはここ(胸・心)働けよちうて言っとるのよ。ここ(頭)働かしてる人は小賢しい働きしてるのよ。自分の小知恵でやってるから。ええに変わらんけんど賢いように見えるけども、実は愚鈍なのよ。自分の先の分からん人であって、自分の先がどんな先か分からんのよ。第一番に何歳になって死ぬ?これから分からないじゃんか。だから愚かな人に聞いてみなさいや。寿命と知恵を一緒くたにしてるから。知恵があるきい、あの人長生きする。そんなことないぜよ。あの人知恵がないきい長生きすらあねえ。そんなこともないぜよ。〇〇がええ人やから長生きします。家がよくないから早よ死にます。それもないぜ。分からんぜ。ということは寿命とそういうものとは違うんだということ。お金がようけあるから、商売が上手だから、人当たりがええから長生きをいたします。そんなことありません。そういうふうな状況に置かれておりますからあの人達は何をしても成功いたします。そんなことありません。全部その人のありよう、これを業感という。業を感ずる。だから自分自体の日常の生活の中に業感ていうものは、(みなさん)今こうやってお越しになられた業を感じてるわけだ。来た来たやないんだよ。実は業を感じてるわけなんだ。自分にはこういう業報ちうものがあったのか。そしてそれによって得ていくものは一体何なのか。仕事の上であろうが、日常生活のそのものの中に業報を感ずる。ところが業を感ずるんだけども感ずることによって自分が悪しきことを感ずるのか良いことを感じておるのか。悪しきこととは即ち自分が苦しみを感じていく。良いことを感じているという人は楽しみを感じている。そうしていくと日常の生活そのものは、業感、業を感ずるということは自分自体の振舞そのものによって自分がどういう振舞であれ振舞そのものに楽しみを感じておるのか。それとも苦しみを感じておるのかによって自分のありようというものにそれぞれの道が決まっていきよる。それを感ずることによって今度は自分が何とかして逃れたいという思いを持つ人とこのままでおりたいという思いを持つ人とおるわけなの。ほとんどの人がこんなこっちゃいかんき、何とか道を開きたい、何とかしたいというふうに背伸びをしようとするわけだ。その時に業を感じてる、本当に気がついておる人は背伸びしないわけだ。これをあるがままと言ってるわけだ。出たとこ勝負あるがままに背伸びせんとそれを受けて立つ自分に変わったときにはおそらくケガはないと思う。ところがみんな背伸びする。届かんとこまで手を伸ばそうとする。で踏み台を持ってくる。それでもまだ手が届かん。その上にまた踏み台を置こうとする。それでひっくり返るんじゃ、みな。自分が事やるにあたってうまい具合に行かないときはあと退けばええわけじゃ。踏み台なんか持ってくる必要ないじゃん。おりゃ、まだ時が来とらんと見て、さーっと退いて、じーっと見とったら賢いんじゃけども、それせんのじゃよ。(質問者。ああ、それができないですねえ)なぜか言うたらさっきも話した。欲望が働いてるからよ。なんちゃ難しいことないんで。何にも難しいことないから。そりゃもうただ座って、御本尊様を信じて南無妙法蓮華経と行った時にはできる問題だから。(別の人。確かにねえ)僕らみたいな跳ねっ繰り返りがやりよるんだから。あなた方のような、持っておる方は、余裕しゃくしゃくの人ができんはずがなかろうがえ。ちょっと跳ねっ繰り返り過ぎじゃないか。(笑い)
だから今の〇〇さんのご質問はねえ。あなたが生命の働きということを御存じであったならば、ひとりでに解釈できていく問題なのよ。だから生命の働きということが基本的にお分かりになっていらっしゃらんので、ただその一つ二つと切り文的にね、これはこうこれはこうというふうに、命には十(とお)ありますよ。生命の働きということはみな知ってる。しかしそれが関連性を持ってることに気が付かない。そしてその関連性だけじゃない。一つ一つに姿を現すということ。そして自分の日常の生活においてはどの生命が日常の生活において常に顔を出しとるか。日常の生活におけるところの生命の働きはどういうものなのか。そして生命そのものはひとつの働きと言っても目に見えない力がある。その力というものは我々の動作として姿を現してくる。といって生命が働かんのに姿を動かすちうことはおかしなもんになりますけども、人間の生活としてはそれもよくある。それは何かといったら自分の意志と反した行動をしている人。人形さんみたいな。こういう人は。なぜか言うたら自分の思惑どおりと違うことやってますからね。これやったら仏法でいう色心不二ではないわけよ。これは色心の二法になっていく。色法というのは顕(けん)。明らかにする。心法というのは冥(みょう)。目に見えない。目に見えない働きと目に見える働きとが一つになったときは色心不二と言って私たちの姿なの。まともな。だからあこ行こうかね。こう思うた時自分の身体をあっち向いて行かす。これは色心不二の人。あこ行こうかね。行きとうないけどあんたが行くんやったらついて行こうかね。命はイヤイヤ言いながらも体はついて行く。これは別個だよ。と面白うない。映画館行っても、片一方は見とうて堪らんで来た。片一方は嫌々来た。まあ良かったねえ。面白かったねえ。早や済んだ。とこうくる。ところが嫌々来た人は長かったねえ。一っつも面白うなかった。分かる?その人の命の働きだから。それを言わさしているのはその人の心法だから。
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