弱々しい信心では困る
- kisuke1965
- 2022年10月1日
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更新日:2022年11月6日
初代講頭座談会 2005年10月3日
御信心のほうがねえ、みなそれぞれがダメになったっちゅうてねえ。言うて来られるんで。そんなはずはないと思うんじゃけんど。会が少ないきん、おかしゅうなってきたいうて。
質問者→問題を抱えてたりとか悩みがあって講頭さんにご指導いただきますよね。そのご指導いただいた解決の仕方のそのー、気持ちというか、、成仏の境涯と違うんでしょうか。
いや、その話を聞いて解決の方法、こうだよって、それを信頼してしまった時には成道を遂げてるんと違う。こっちの言葉は妙法蓮華経を体としたところの話なんだ。でなかったならばただの相談屋さんなんだ。それじゃったら専門の知識を持ってる人のところへ行けばいい。しかし、ここでの相談するのは、どんな相談を持ってこられても根本的なものがある。共通したものがある。それは何かというと、地水火風空の五大というものを変色させて姿を変えた、そのありようによっての話をしている。だから、その通りやった時には必ず100%出てくる。しかし、それをしない。全部自分の考えが入るから。自分の考えとはみんな持ってるんだ。ここでいう自分の考えとは我見なんだ。我の考え。この我見とは煩悩障から起きてくるモノの見方なんだ。煩悩障とは必ず自分を利益しようという働きを生じている。自分のメンツ、立場。いろんなものに対して、少しでも利のええ方、都合がええ、人が見てもそれが当たり前。そういう考え方を自分が持っている。自分の考えに合(お)うた時には、よう分かっていく。ところが自分の考えと正反対に突っ込まれた時には、そんな話、あんなこと言うけれど、そうはいかんわ。とこういうふうなことを言っちゃう。そういう気持ちでやったら何にもならん。僕はいっつも滅多に来られん方に言う。こういうふうな大事な問題を持ってくる時には、どうか嘘を言わんとってくれ。自分手前のいいことばっかし言うて、都合のええようなことペラペラペラペラ言うて、ここへ持って来られるな。解決しませんよ。それは虚言だから。嘘だから。真実こうなっておって、こうだという時において、こうだ、こうだと、それをパッとやった時に答えがポンと出る。だから、ここで話をするときには自分の都合、手前味噌をここでベラベラ言わんとって頂戴と。どういうことであっても仕事であろうが何であろうが、ここはそんなことを相談する場所やないから。結論を言うならば信心しかないんだから。ここは。その信心の話をするから。それによってご自分自体の生活方法を見つけていきなさいよと説明して話をしよる。さすれば必ず100%出てきます。100%です。どんなに難しい問題であっても日数をかけたならば必ず解決します。何年かかっても解決します。解決せんという問題でも解決します。それは何。さっき言った刹那成道でしょう。問題が。いろいろ話をしている間に分かっていくでしょう。さっきも何かの〇〇(問題?)を引っ張ってきた言うてたけど。けども刹那成道でしょう。話をしてる中に自分が気が付いたでしょう。気が付くことによってスパッと捨てたんでしょう。刹那成道できてる。さわっとしたもんだよ。お面変わっている。(お面。笑)。いやなもんじゃよ。ここ(部屋)入ってきて、引っ張っちゅうという時の顔と、話済んでしまってる顔と全然違ごうてるじゃないか。別人になっちゅう。見て御覧なさいや。嘘も隠しもないやんか。だから怖いのよ。ここは。出るけん。外へ。なんぼ隠しても出てくるきい。
質問者→どうして分かるかなあと思って。先に。
そういうことよ。だから別に相談をせいでも自分自体が妙法蓮華経のすごささえ分かっとったら自分で解決さしていきゃあええの。自分のありようを人にいちいち相談をしてやらないかんような、そんな弱々しい信心じゃ困る。自分自体がこれはこうだ!と思い込んだら、それで突っ張っていく。そして、いかんようになった時には、よし!、やり損のうたか、じゃあ改めてこれで行こう。それでええのよ。そうやってやって行くところに強さができてくる。
質問者→こうじゃないかと迷った時に、スパッとこれでいいって割り切れないときが。それで失敗するんですけども。
迷うのはな。それは日常の生活だ。自分の生活。方程式があってやってるからね。それは迷うてもええ。ここへ相談に来るのはね。そういうがの迷うたがじゃないが。ここで相談に来るのは、御信心の上において、どうすべきかという迷いを生じたときに相談をしてもろたらウンと有り難い。それ(信心)が全部自分の生活に出るっちゅうことを知っとったらええ。まだこれみんな気が付いてない。自分の信心の姿勢が全部生活に出るっちゅうことに気が付いてない。出ちょるよ。これはっきりしてるんだぜ。罪障っちゅう話で来られる方があるっちゅうけども。罪障というたら、みんな、それは分かってる。宿命が、罪障が、そういうこと分かってると仰るけれども。分かっちゃあせんの。罪障というもん、どれくらい怖いことか。自分の宿業、宿命がどれくらい怖いもんか。分かってないのよ。分かってないから気楽なもんよ。いろんな姿を出したときに、それがさっきも言ったように自分の業報、過去の業報によってこういうふうな姿が出てくるちゅうことに気が付いたならば、これは油断ができんちゅうことにもなる。気が付かないから油断するんだ。
質問者→油断したときに結果が跳ね返ってきてるんですね。
いやもう、油断した時やないんだ。油断せいでも出るんじゃこれは。
質問者→油断した時はでもすごいですね。
そりゃあ自分自体の一念心が油断をしているから、受けてよう立たん。油断をしてない人やったら受けて立つ。別段にひっくり返ることもない。けど油断をしとったらひっくり返っちゃう。そんなはずはない。こんなことはない。って、こんなことはあることになっていく。世間でもいろいろあるのはそういうことだ。気(が)付くというのがうんと大事なんだ。
(今回のはすでに「初代講頭の伝言」に掲載してましたね)
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