top of page
検索

師弟子の法門

  • kisuke1965
  • 2021年10月3日
  • 読了時間: 7分

更新日:2022年11月5日

初代講頭座談会 2008年10月9日


(亡くなる前の講員を見舞った話のあと)

外相(げそう)が変わるということは内証が違うのよ。内証が。これができなかったら外相は変わらんのだよ。御信心、御信心といっちゃったてここ(胸・心)が変わってなかったらここ(顔)は変わらんのだよ。ここ(心)が変わるということが、すなわち成道。即身成仏や成道とか刹那成道といういろんな言葉を使っている。それを取れるか取れないかはその本人の信心よ。いつも僕が言ってるのはここなんだ。一つの事柄を善知識として我々在家は取っておるのか。それともこんなもんがあったんだと、ただそれだけで取っとるのかによって違(ちご)てくる。だから大聖人様の仏法の師弟相対してという、師弟子の法門という言葉がある。この師弟子の法門でなかったら成仏はせんわけなんだ。それは師と弟子と相寄ってそこにひとつ(のものを)考えているわけだ。難しい言葉を言うけども。龍ノ口の御法難という、発迹顕本、発迹顕本いうけども大聖人御自身、発迹顕本したと一言もおっしゃってないろ。そんなことは。大聖人は。日蓮といゐし者はこうこうして首を切られたんだ。そして、佐渡の云々においてどうこうしたという話だろ。「魂魄佐渡の国にいたりて」ちうのは。ただそれが龍ノ口から魂魄が佐渡に来たということで、御自分が悟ったいいなりだけの言葉で取ってしまっているのか。それともそこにひとつの宗旨としての大事なものが含まれとる(と取っている)のか。大聖人の仏法の云々はここにある(と取っている)のか。これ信心によって分かっていくわけなんだけど。これ師弟相対して分かるわけだ。ここが分かっていなかったら信心が全部狂ってくる。肝心要の処が。だから魂魄ここにいたった。佐渡へ来たんだという意味合いからみたならば、大聖人は佐渡へ来るまでは爾前の経とをぼしめせとぴしゃーんと切ってしもとるわけなんだ。爾前の経ということはお釈迦さんの仏法の話なんだ。爾前の経とをぼしめせということは、お釈迦さんの仏法の話じゃないんだぞと仰っているわけなんですね。大聖人御自身が。そうしたならば大聖人の仏法はどっから始まっているかといったならば、龍ノ口の御法難が済んで佐渡に行かれた、魂魄ここに来たんだというその時点から滅後末法が始まっているんだ。ええですか。滅後末法。これ大事な御法門でね。滅後末法ということは釈尊滅後2500年をもって釈尊の仏法は滅する。経文の中には五五百歳。ちゃんと出てくる。末法に入っていく。それこそ末法は尽未来にいたるまで末法になる。尽未来ということは無始無終の話なんだ。始めもなければ終わりもないんだよ。五百塵点だとか久遠元初とかいろんな言葉を使っているけれども、久遠実成はお釈迦さんの話だよ。久遠元初は日蓮大聖人の話だよ。私たちは日蓮大聖人の信心をしてる。そうすると日蓮大聖人の始まりはどっから始まっているか。御本尊様に2300年とちゃんと出てくる。~中略~大体2500年近く。(このあたりの数字はちょっと曖昧。。)これが滅後末法の話だ。その滅後末法の話。すなわち大聖人の仏法はそこから始まっている。滅後末法の末法即久遠元初というのは今の話なんだ。久遠元初、久遠元初と積み重ねてきて時代の積み重ねでやってきたと数字を出す。こんな馬鹿げた話はないんだよ。これは仏法を知らん人の言うこと。仏法にはそんなものはない。時空を超えてるんだよ。時空を超えているから想像できない。だからね。仏の寿命ってなに?仏様の寿命って?みんなお釈迦さんの寿命ぐらいしか思わんろう。本当の仏の寿命は。無始無終じゃんか。だから、さっき言ったように即身成仏の仏果を得ていくちうことが。即身成仏ということなら、我が身。己心。自分の心をよくよく見てみたら仏心と異ならずじゃないか。ひとっつも変わってないやんか。仏と。それが私たちの命の働きやんか。そして刹那成道を遂げたときには不思議に仏と同(おんな)じ境地におるんじゃないか。刹那成道ができなかったら成仏できれんで。刹那成道ができん人は成仏できんで。はっきり言って。当宗においては一番大事なものは何かいうたら刹那成道だぜ。その刹那成道ができるから現証としてでるんだぜ。だから現証は確かにでる。はっきり言われとる。現証はある。ただその、いかんちゅうのは、こういう大事な刹那成道だとか己心の法門としての自分自体を振り返ったときに、自分の身体は天に戻り地に戻る。そして何の障りもない、何のそこには憂いもない、何の心配もない自分になってしまってるちうことが、これが事実生きとって感ぜておれてるかどうかが問題なんよ。生きとってなる。死んでからじゃない。だから当宗においては死んでから成仏しますということはひとつも言わない。全部それは生きとって死というものを迎えていく。その死を迎えるにあたってすでに自分が成道を遂げたあり方を取っているかどうか。ここが問題なんだ。これを刹那成道という。


だから仕事でもなんでもそうなんだ。仕事やっとっても、自分が苦しいとなったときにどうしよう困った困ったと言ったらこれはもう地獄なんだ。苦しみを味わっている人は。そこには成道なんて考えもつかない。その時死んだらカチカチもええとこじゃ。苦悶の体(てい)しちゅうろう。目玉飛び出して。そんなんなる。ところがそうじゃなしに、そういうときに自分の命をふっと見たときに、始めもなければ終わりもない。無始無終であって自分自体の肉体は成住壊空で滅していくけども、よくよく見たならばそういうものもない。あるがままの姿。自受用報身のその姿をもっていく。自分の生命(せいめい)は無始無終であると。故郷(ふるさと)へ還っていくんだということが分かったときは、これは生きながらにこれが分かっとったら成仏やってるわけだ。それが現世利益についてるわけだ。だから本当に問題が起こったときに、拘(こだわ)っている人に現証は出ませんよ、現証は出ませんよといっつも言っとるろう。これを言っとるわけなんだ僕は。拘っている人にはこれができないから。自分のちっちゃな頭で現世の目の前の、この穢土の中の考えをもって見とるから。その中でこんなになっとる。頭が。本来のようするに天性・地体(てんしょう・ちたい)であると、障りも何にもない自分になっちゃあせんから。障りも何にもない自分とは仏の境涯の話だから。これはもう言葉じゃないんだから。自分自体が体験をせな分からん問題だ。体験をしてみたら分かるわけだ。


こういう話をした。本人さんに分かったか分からんか知らんけど、あくる日の朝の6時半には亡くなったいうて電話が入っちょるわけ。ここへ。吃驚仰天よ。同(おんな)じ姿じゃなかったんじゃから。元気なもんじゃった。帰りがけには。~中略~今思うてみたら、ああ、別れの縁の話になっとったなと。僕は不思議を感じた。


(注:御僧侶からは臨終の相については言わないほうがいいと注意があったと思うので念のため。ここでも臨終の相はメインテーマではありません)


----------


ポイント

・久遠元初は今。

・その昔、顕正会で習ったのは、久遠元初とは大昔一人の聖人が忽然と悟ったという、時の流れのある一点という解釈だったと思う。これでは、その聖人が悟る前はどうだったの?となる。

・観心本尊抄には、「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず。所化以て同体なり」。

正信会教学部発行の「日々命訓~聖人の御義に生きる~」の語訳では「そのような無常の仏土に対して、今、本門寿量品の説法により開顕された久遠本時の娑婆世界は、根本の災いである火・水・風の三災にも破壊されず、成・住・壊・空の四劫という変遷をも超越した永遠の浄土です。久遠実成の教主釈尊は、もはや過去世に入滅せず、未来世にも出生されない永遠の存在であり、その所化たる九界の衆生もその常住の釈尊と一体不二の存在です」。これで仏は時空を超えて無始無終ということになる。おまけに「所化以て同体なり」。そして時空を超えているのだから時間の制約はない。無始無終も刹那も同価値では。


(注:2000年5月の寺報は、「一代五時鶏図」を引いて、『久成の三身』は三身共に無始無終である以上、衆生を意味している。上記の観心本尊抄の部分は、「衆生が衆生を支えていく」。その前文の「始め寂滅道場・華蔵世界より〜能変の教主涅槃に入りぬれば所変の諸仏随つて滅尽す土も又以て是くの如し」は、現在は無仏の時代。とし、宗祖は「私たちが生きている歴史的時間そのものが、「元初の時」であるとされている」としています)

以下要点。

・末法には釈尊の末法と日蓮の末法がある。

・師弟にも二つの意味がある。

・仏の側から主張すれば本果が勝れ、衆生の側から主張すれば本因が勝れる。末法は無仏の時だから衆生の側から法をみる。

・二重構造とも言うべき当宗教学の特色は、在世の法華経を借りて文底元初を論じるところから生じる。

・さらに約理の因果と約時の因果があるが煩雑になるのでこれまで。

(とっくの昔にちんぷんかんぷんになってる。。)


 
 
 

最新記事

すべて表示
喜びというもの

2002年3月12日 初代講頭座談会より ​ 喜びというものがあなたにあったなれば、そこにはいつも感謝の気持が湧くろう。親に対して。その感謝の気持が働いてるときには大聖人の加護はある。あなたに不平があり不満がありして、信心の話をやったち、何一つ、それはオカルトぢゃ。御本尊の...

 
 
 
求道心

2009年2月24日 初代講頭座談会より ​ それぞれのいままでの御信心の上においての確認しおうてみよう。御信心どういうふうに捉えてどういうふうな感覚でいままで御信心してきたか。お互いがまた確認しおうて反省しおうてみたならばね、また一つ一段と違ったね御信心ができるんじゃない...

 
 
 
信仰とはいったい何だろうか

2006年1月19日 初代講頭座談会より ​ 恐ろしいもんでね。国会喚問のねえ、態度見よってね。学会員と違う、これっちうてね。学会員やった。金剛会の連中なの。金剛会はやめて、名前変えちゅうの。池田大作さんとああいう連中と問答(対談?)もの、持っちうの。ああいうの、ほら、儲か...

 
 
 

Comments


Commenting on this post isn't available anymore. Contact the site owner for more info.
  • Facebook Classic
  • Twitter Classic
  • Google Classic
  • RSS Classic
bottom of page