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寂しくなりましたね

  • kisuke1965
  • 2024年10月11日
  • 読了時間: 5分

更新日:2024年10月12日

2008年10月9日 初代講頭座談会より

そうね。たしかに一人減り二人減り、我々の心情としては寂しいものはある。しかし、こと己心の法門として仏法をもってとらえてみていけば当たり前の姿なんだ。そしてまたとくに即身成仏の仏果を得ていくという段階の話になってくればね、それを事実、目の前で見ているものですからね、寂しいというかね、何となくワクワクするものがあるね。ほらっ。亡くなった方に悪いけども。その姿を見ているだけにね、ワクワクワクワクしてくるものがあってね。それをもって考えてみたらね、亡くなったことによって、仏法のすごさを見せつけられたことによってね、そしてなんといいますかね、妙法蓮華経のすばらしい、そして成仏するというのがどういうものであるのか改めてこれ勉強させていただけた。言いかえれば亡くなっていくその状態そのものにおいても、ありようというのは、仏法を教える者と習う者とおんなし(同じ)檀家として在家の者として、先輩後輩といいますけども、これが順序が狂ってきて後輩が先輩になり先輩が後輩になっていく、いうこともわかった。それをもってね。なんせ、教えられたということだよ。ようするに死というものをもって私たちにこういうもんですよということを見せてくれた。それはなにかといったら妙法蓮華経のすごいすごさなんだ。だから僕は早速その日から亡くなった方の状況を、それを見てなにしてるからそれをもって今度自分に当てはめて信心のあり方がっくり変わってる。そうすると不思議なことに自分自体の一つの問題がひとつひとつまた解決している。いうことでね、ようするにね、即身成仏という仏果を得るということは、即身成仏ということは、我が身、自分が亡くなってしまったときには、天にもどり地に○○○てんしょうちだいである。なんの患いも触りもない。これが即身成仏の仏果を得た人の姿じゃろ。だから、その、なにがなかったならば大石寺の法門というものはただの現世利益ばっかしのオカルト宗教になってしまう。それが怖さがいまそこに、大石寺の信心のあり方としてはオカルト信心、ね。他宗からは水をぶっかけられている。現世利益現世利益と騒いで。現世利益に間違いはないんだけども、そこに抜かっているものがある。それは現当二世の、この現在未来にわたっての成道をとげていく、その信心のありようというのが教えられていない。抜かっている。教えられていない。大聖人教えていらっしゃる。教えているけれども今の当宗にはその言葉は全然出てこない。ある者は拝んだらいいんじゃ、拝んだら。お題目どんどん積み上げたら功徳が出てくる、いうふうな邪道的な教えしかない。じゃったならば大聖人の仰せのまま、一言接尽(いちごんしょうじん)の題目など意味あいなんにもないろう。師弟相寄ってとかも。一緒に仏法に同じていくわけだ。いまこうして僕たちがまた話をしている。先輩後輩だ。そうすると先輩の体験、後輩の勉強。この2つが相寄ってきて仏法というものはこういうものだなということがわかるわけ。それが全然出てきてなかったら、体験もなにもない者が折伏だあ折伏と飛び回って信心狂わしていく。これがいま顕正会、創価学会。そのことを折伏の論文もってきたならば、日寛上人は文段の中においておっしゃるように、折伏というものは己に向けなさいと。そしてそれはあくまでも己に向けるのは修行。まだできてない我々は。未修行者なんだ。修行が出来上がった人は折伏弘通ができる。それは日蓮大聖人ただ御一人しかない。どんな災難が降り掛かってきても平気の平左で笑って受けて立てれる。我はそうじゃない。悪口(あっく)を言われたら腹を立てる。うまい具合いかんと愚痴をこぼす。なにかがあると不安を感ずる。全然できてないといって過言じゃない。いわんや即身成仏とはどういうものであるか、未来世においてどういうふうになっていくのか、ということも話をしてもわかるもんじゃない。それだけ修行できてない証拠だから。そういう者が修行をしていた大聖人様と同じことをしたならば仏法は滅茶滅茶になる。生活も滅茶滅茶仏法も滅茶滅茶になってる。これがいまの大石寺のありようなの。そんな人に成道を遂げたなんやいうておこがましい話だ。成仏なんて考えられない。また事実成仏の姿は見せておらん。信心の話をしながら目はつり上がっている。信心の話をしながら人のことをあざけ笑ってる。信心をしながら喧嘩をし、愚痴をこぼし、泣きわめきしながらやってる。不足ばっかし言ってる。これなんか邪教と一緒よ。(プルルル、プルルル。)大音量で電話がなる。みんな笑。


ーーーーーーーーーー


わずかなこっちゃけどもね、わかりやすく話をした。その上においてね、御本尊様に向かって。僕は教えてもろうた妙法蓮華経の話をたった1時間半の間に、どういうふうにとらえたか知らんけども、死んだような顔がたちまちにおいてすばらしい顔つきを見せてくれて、そばにおるご主人がびっくりして、病院におる◯◯さんに言いに来たばあやから。よほどすごかったに違いない。そういうふうな事実があるわけだから。僕の見た目においても。そしたらね、その現実な姿を見たときに。ね。病気だろうがなんだろうが、それがね、ああいうふうなね、死なないかんという、すでに寿命は絶えとったかもわからんけども(話の行き違いで「また行く」と言ったのが病院の本人に「今日」と伝わり二日待った。初代講頭が会いに行った翌日亡くなった)。そういうなかにおいてその姿を見せてくれたんだ。となれば本当に御本尊のすごさというものは、真実信じきれた人にはこういうふうに出るんかいなってことをしみじみ味おうたわけだ。私が味おうてうれしかったのはこれなんだ。それがあるけんうれしうて、みんなが涙こぼしたりしても僕には涙が出ない。なんかワクワクして。住職さんに言うた。妙にワクワクする。自分でもわからんけども。ワクワクワクワクして。うれしうてたまらん。なんでしょうねえ。言うたら。そうかねえ言うて。キャッキャキャッキャ笑ろたよ。住職も。楽しそうに笑いよったけど。法から見たらすばらしいよ。実は。な。生命の永遠ということを見せてくれた。

 
 
 

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