妙法蓮華経の功徳
- kisuke1965
- 2023年7月31日
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更新日:2023年8月6日
初代講頭座談会 2004年7月15日
質問者→物事を解決しようと思ったら自分の信心を顧みなさいと聞いたことがありますけど。やっぱり、その。。
うん。信心をね、顧みるとはね。自分自体がね、大聖人様をね、妙法蓮華経を信じておったらね。解決するかっていうけどもね、それは飛び抜けているんだよ。抜かっているもんがあるんだよ。南無妙法蓮華経を信じることによって知恵が湧いてくるんだよ。知恵が。このことを法報応の三身如来というんだよ。法身、報身、応身。生命、体、振る舞い。この三つなんだ。特に私たちは応身ちうものが大事なんだ。応身ちうのはその人の振る舞いなんだよ。だから南無妙法蓮華経と題目をあげるんやったらね。本当に御本尊が信じられれば信じれるほどにその人の振る舞いというものがどうなっておるかということが問題なの。だからあらゆる経文にそういうふうに説かれてあると大聖人仰っている。まず南無妙法蓮華経と題目をあがることによって何を感ずるか。生きておれる自分に喜びがなけりゃいかん。どんなことであろうと生きていけれる自分に喜びがある。そしてまたそれに付随して言えることは、如何様なもんであっても自分の口に入るということぐらい有り難い話はない。それはなぜかっていうと、白米であろうが何であろうがそれを食べることによって血となり肉となってその命を支えているんだよ。この命というのは亡くなったが最後、いつ地上に生まれてくるかそれは言えないんだよ。だから大聖人様は惜しい命であると仰るんだよ。惜しい命なんだ。命があるから喋れる。命というものがあるから物が見えてる。しかし命、亡くなってしまってただ法身だけになる。生命だけになった時にはどうなるか分からんろう。お互いに。だから南無妙法蓮華経と題目をあげる、ということは命そのもののことを論じている。まずここから考えてみないかん。そうしたならば仏っていうのは何かというたら大慈大悲。これを如来という。如来とは大慈大悲。大慈大悲とは抜苦与楽。苦を抜き楽を与える。そういうふうな振る舞いが果たして僕たちはできてるかできてないか。そういうもんの延長線に自分の仕事の云々もある。だから仕事の中においても自分が感謝をしてやっとるのか。嫌な人に会(お)うても、そこに世話になっとると思うたときには自分がどういうふうに反応をおこしておるのか。ひとつひとつ振り返ってみていかないかんろう。難しいことやろうけど。しかしそこはさっきも言ったように言語道断・心行所滅。我々には分からん。分からんかったならばどうしよう。やるべきことはやった。あとは大聖人様の御計らいを待とう。南無妙法蓮華経と。そこに自分自体が信じ切れて、大聖人様の妙法蓮華経の計らいというものがあった時に、その間際において法身如来という一つの姿が出てくる。信じ切れているから。疑いがないから。傍(はた)から見たときには、あの人は仏様じゃなかろうかなという振る舞いが始まる。何一つ怖じるものがない。今まさに息を引き取ろうとするような状況においても平気の平左でおれるなあと。大変なことなのになんでなんだろうねえ。言葉ではもう言えない。我々が何でと考えても判断のしようがない。そういう姿を現す。現証。これが妙法蓮華経の功徳だよな。だから御本尊を信じた。南無妙法蓮華経を信じたけども。その信じた中で自分が何を考えておるのかちうこと。信じておりますから儲けること考えておりますじゃったならば、それは餓鬼道で大聖人様とは関係ない。そうでなしに妙法蓮華経が信じれたならば自分は素晴らし生命、仏の命に変わってみよう、と努力をしながら一つのことにぶつかっていく。そうすっと自分の生まれながらにして持っているところの福運果報というものが出始めてくる。これはあんまりねえ、人さんに言われんことなんだけれども。昨日あったことなんだけども。これは二月(ふたつき)三月(みつき)前にね。僕はある方にね、ここへ訪ねてこられた方に注意した。こういうふうな信心の話を。ほんとに御本尊様が信じれて、南無妙法蓮華経と題目をあげて。自分の私心、わたくしがないという腹構えになって。生きる死ぬも問題にないとして。南無妙法蓮華経と題目をあげたときには、どんな苦境に立っとっても道は開く。どういうふうな、もう明日食べれんというようなことがあっても人を頼るなよと。御本尊さん。こう行けよと。その時に必ず助け船が出てくる。心配せいでええ。疑う必要はない。僕の病気見たらわかるろう。僕が証明する。おんなし(同じ)ことだから。あんたがそういうふうな状態。そう言うて。私らもいろんな人と話をするから忘れてしもとった。けど訪ねてこられた。電話が2回かかってきて。そして訪ねてこられて。そして報告しとうて言うて。なっ。あの時、講頭さんに話をしてもらうたのがきっかけになって勇気が出た。勇気が出て、実はこうこうで。ちうことで、話を聞いた僕のほうがへそくった。ええー、ちうて。そんなことで道が開いたんかえ。ちうて。ビックリ仰天した。そのことなんだ。これが妙法蓮華経の功徳なんだ。縁に触れた。なっ。妙法蓮華経の縁に触れた話を聞いた。もしこの話を聞いてなかったら、ちうたら。いやー、私はダメになっとったろうか、いうて言いよった。あの時に断られたことが。何してから、自分がクシャクシャしてから。またよそへ小細工しに、とんどったかもわからん、ちうて。だから僕が皆さんにいっつも言ってるけど。大聖人様が善智識とは自分の運命を左右するものよ、いうて。みんな善智識善智識いうたら耳にタコができるばあで。なんやあ、ええことだけしか考えてないのよ。ねっ。善智識とはそうじゃない。善智識というのは自分を助けるか助けんかというもんぜ。ほんとうに自分が可愛かったら善智識を求めちょりよ。どうでもよかったら悪知識に走っちょれ。悪知識いうたら遊ぶことをうんと言う。食べることが喜びよ。遊ぶこと食べることが友達。嫌なこと言うのは嫌。良いことづくめ。口に蜜のある人。なあ。そういうのが悪知識だから。善智識とはそんなもんじゃないぜ。現実にこうなるああなる。スパスパ教えてくれるぜ。なっ。そのことも経文に説かれてある。大聖人おっしゃってるぜ。善智識を求めるんだよ。なんせこっちはへそくったよ。えー?へそくった?へそくるいうたらびっくりした。でべそやないで。ねっ。妙法蓮華経の功徳とはこういうもんなんだ。それができるっていうことは自分にね、わたくしがあっちゃいかん。欲の皮が突っ張ったことを考えてはいかん。そこにはねえ、わかりやすく言うたら執着を捨てなさい、ちうことだ。こうなりたいああなりたいという執着を捨てる。捨ててしまいなさい。カラッとした気持ちになる。そういうふうな気持ちになって御本尊に向かう。その時は素晴らしいものがある。それを教えてくださっている。
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