執着がない
- kisuke1965
- 2023年5月6日
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初代講頭座談会 2002年5月13日
法華三昧堂。死体置き場だ。私たちが修行するのは私たち自身が執着心のない場所。そういう場所は探してもあるもんじゃない。法華経を修行する。その心が執着がない。あるのはただ妙法蓮華経の五字七字。これに向かって唱題修業できる。これが法華経修行の場所。だから法華経を修行するというのは、自分自体に執着心が働いているとき、自分の願いがこうだから一生懸命御祈念しています。しかし、いくら御祈念したところで関係ないの。執着心を捨てなさいとまで言われている。法華経の修行にならんよと。その執着心をかなぐり捨てて、御本尊を信じる、南無妙法蓮華経を信じて動揺せず疑わないという自分に変わってしまわなければならない。その時に初めて口からアッというような現証が生まれてくるよ。これは自分の体験なの。大きなことは言われんけども、錆び付いた観音扉も開くよと言うの。この御信心はすごいよと。本当に信じ切れた人というのは錆び付いた扉でも開くんですよと。こういう信心なんだよ。この信心は。これをオカルトと言うてたまるもんか。オカルトとは違う。残念ながらそこまでお互いが行けれるかどうか。要するにお互い修業が足らない。修行をするといっても仙人のような修行をするわけじゃない。日常の生活の中にその修行があると大聖人は仰っている。その修行をちゃんとしたらいい。みなさん、お家に御書を持っているはずだ。見て御覧なさい。ちゃんとあるやんか。八風に犯されぬを賢人という。四条金吾殿に与えられた、あれ読んで御覧なさい。日常の生活ぜんぶ出てくるから。このうちひとつでも犯されたものは仏(天)は守らんとちゃんと書かれておるじゃんか。ええですか。八つあるで。良かったと有頂天になる。悪かったいうたらすぐグシャッといく。ひとから謗られたいうたらすぐに歯をむいて嚙みついていく。儲けるいうたら血相変わってる。儲けても有頂天にならんことだろう。我、破られたいうてグシャッといくこともない。目の前に困ったことがあったら、やれ困った。そんなこと言っちゃいかんということやろ。そんなこと言ってたら守られんと仰っている。全部日常生活の中にあるやんか。だから修行というのはどこにあるかといえば、日常の生活にある。だから大聖人様は行住坐臥においてと仰っている。行住坐臥に法華経の修行をしなさいと仰るのはそういうことだろう。阿部(日顕)さん流にやっていくと、日常生活の中で折伏せないかん。あそこのスーパーへ行って、顔見知りが来んかと手ぐすね引いて待って、来た来たというわけで一時間二時間話をする。襲われた人も迷惑じゃろ。顕正会の話やけどね。ナンコクスーパーでねやりよった。ええ加減に帰ってくれ思うて見とりゃあまだ話しよる。もうすんだろう。一時間たったかなあ。覗いてみるとまだやってる。迷惑なことなんだろうなあ。根負けして入る。入ってもすぐやめる。折伏じゃないから。勧誘だから。盛んにやってる。そういうことだから。信心というのは修行。修行というのはどこにあるかといえば日常生活の中にある。そしてまた御本尊様に向かっての、南無妙法蓮華経と唱題修業していく。中に、いつも自分のことばっかり祈念するんじゃなしに、自分自体が大きなもんであると気がついたら、しよい(しやすい)んじゃないだろうかね。ま、そこまでわかるかどうかな。
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