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在家の信心

  • kisuke1965
  • 2024年2月4日
  • 読了時間: 5分

更新日:2024年2月25日

初代講頭座談会 2004年2月5日


松山の方はみんな素直でええわえ。そのうちにねえ、何回話しをしてもおんな(同)しことよ、ということになるかもわからんよ。そういう言葉が出始めだしたときには用心をせないかん。信心自体がずっこけてしまってるときには必ずそれが出る。自分に成長がないから。ほら。(高知の人は会話の中に、ほら、とよく言う)。人っていうのは、その取りようによってみな違うてゆくもんでね。今回も鹿児島、いや宮崎かね。高校の生徒さんが。出しとろう。約千名が小泉さんあてに。派遣のなんに対して。ところが小泉さんがそれに対して、教育せい言うてあべこべにやって問題になりだしたろう。ところが実際の情勢は、その当人自体の取りようなんでね。違うんだよ。だから国論が二分されるのは当たり前なんだよ。ひとっつもおかしくないんだよ。そこにはっきりとした指針が出てこないとちんぷんかんぷんになっていく。これを仏法でいうなれば三世間のうちの五陰世間なの。色・受・想・行・識。こういうふうにね、お互いが周囲の状況を見て、どう受け止めておるか。その受け止め方がじわじわじわと重なってくることによって定まってくる。そこに動きというものが始まってくる。これが行なの。全体から見たならば最後の識。これがその本人の命の働き。こういうふうに説明されてる。私たち自体は日常の生活をどう受け止めてどういうふうにしておるかというところが違うてくる。そこにね、真剣にやっている人とやってない人の差が出てくる。仏道修行もねえ、大変大事なことを大聖人様お教えてくださってるけどね。残念ながらねえ、その肝心なところは伏せてある。皆さん方に教えてない。それでねえ、そういうこともチラチラ出だしてねえ。おかしいじゃないかっちうわけでね。なぜこんな大事なことご信者さんに教えないんだ。組織可愛さにやってる。もうこんな話せられんけんどね。吹き出すぜ。話聞きよったら。戒壇の本尊のテレパシーが、こうなって、自分ところの本尊のテレパシーと私のテレパシーとが一緒になって功徳が出る。こんなアホみたいなこと言ってる。日蓮正宗の僧侶で。こんなこと言ってるのは。あんたところのお母さんが行ってるところの坊主で。こんなこと言ってる。だから信心もどんな何してるのか。あるいは死身弘法だとか、不惜身命とか。僕たちも使うけれども。創価学会も昔そうだったろう。信心をやらないかん。学生が勉強してる。試験に滑る。なんで?折伏に忙しうて。そんな馬鹿な話があるかいうてワシ怒りよった。学生なら学生らしい、もっと勉強しろ。折伏が何。そんなもん行くな、ワシは怒った。終いには歯科の単位が取れいでどうしても国家試験が通らん、言うてきた。自分の学問のねえ、極道した。それが結果じゃないか。なぜ人の忠告を聞かん。うちのTには、体の具合が悪い。帰りたいけんどもこっちにおって折伏して功徳積んで。。アホなこと言うんもんじゃない、帰って来い言うて。帰らした。帰ってくればお陰さんで、今県庁の方では責任職についてやりよるろう。それから片一方の歯医者の方は、鏡川の方で開業してやってる。じいちゃんのお陰じゃけん、入れ歯作ってやる言うて。ワシは行ったことがない。嫌じゃけん。そんなもんじゃ。こういうふうな大事なことでもご信心という美名ちうか、死身弘法、不惜身命いうふうな問題に隠れて、仕事をなおざりにしながら信心信心いうことを教えている。今現に顕正会がそれをやっている。それを見よったら気の毒になる。家の中、なんぼか乱れていくろうと。我々もそこまで行きよったけども、これはいかんちうがで踏ん張ってお陰でああいうふうなもつれがなったちうことは、こっちから一生懸命でね、支部長がああいうこと言う、こういうこと言ういうて、(顕正会本部に)言うていく奴がおったんでね。何人も。それによって分かってきて、僕が正反対のことを言ってるちうなことになって、結局やまった(辞めた)がじゃから。これが事実なん(だ)。何と(理由が)つけようがないきにいろいろガチャガチャ言ってるが。いまもって言ってるよね。近寄ったら罰が当たるいうて。困ったもんよね。そんな信心じゃないけどね。そこで松山の方々にね、本当の信心の有り様といいますかね、隠されてる。皆に。本当に聞いておらん。それは何か。楽法梵志はなんだろ。雪山童子の話。一つの話を聞きとうて身を投げた。薬王は身の皮をはぐ。修行の有り様というのを(皆)聞いてきた。斯くの如くに身を投げて法を求めていく。すなわち死身弘法。大聖人は確かにそれは仰っている。ところがあとの文句を誰も教えてない。これは聖人に対するところの事法なんだぞと。聖人の事法。聖人がすること。出家なんだ。出家はこういうことを心得て。身の皮をはぐということは、今で言ったならば自分の着ておる一枚しかない着物を法に供養するということだぞと。そこまで仰っている。これが観心の法門なんだぞと。では在家の私たちの信心の有り様というのはこれじゃないんだぞと。これは在家の私たちは理法なんだぞと。これは。まことの供養というのは事法。これは世間の事法なんだ。私たちは。今言ったところの聖人のまことの事法というあり方は、在家の私たちにとっては理法なの。それはあくまでも理法であって自分の一念心の中にそういうものがキチッとなければいけませんよと。そういうことをしてはいけませんと。在家は。在家はあくまでも世間の事法。これがまことの供養だぞと。こう仰ってる。大聖人の直筆があるんだ。すなわち世間の事法ですよということは日常の生活を真剣に考えて取り組んでいきなさいよと、これが真の信心なんですよということなんだ。だから信心だ信心だいうて飛び回って日常の生活も忘れてしまうようなやり方をしたならばいけませんよということなんだ。

白米一俵御書を拝読してください)

 
 
 

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