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八風に侵されっぱなし

  • kisuke1965
  • 2023年5月12日
  • 読了時間: 6分

更新日:2023年5月14日

初代講頭座談会 2002年5月13日


質問者 流転をするんで。八風にも侵されっぱなし。成仏できるんでしょうか。お金が無くなったら暗ーい顔になる。


みんな一緒よ。あんただけと違う。こうやって笑いよるけど、お金が無くなったら財布あけてきてね。千円札一枚か二枚しかなかったら暗ーい顔になるよ。当然だろう。僕たちの権利だもんね。しかし、それでは成仏という大きな目的は達成できんもんね。当たり前のことをしよっちゃーねえ。修行して、ものに動ぜん自分に変わらなね。ワシはよー言われたよ。顔だけ見たらなんぼか持っちょるような顔してるいうて。御信心をきちっとやってくるとね、暗い顔になるのが当たり前でもね、それが暗い顔にならんとね、生き生きとした姿が出てくるのよ。それはひとつのことに振り回されていないということ。そういうふうな状態になってきたときには、人は信用するのよ。何かにつけて暗い顔した時にはね。暗い顔して歩いて御覧なさい。誰が声かけてくれる。ものに紛動されない自分になるということが大事なの。そのための御信心だろ。紛動されないということが成仏だろう。だから仕事でも、仕事があるとかないとか騒ぐ人がいるけども、紛動されない自分になった時には答えが出てるのと違う。紛動されているときは、ひとつの話があるたびに、ああ良かった、いやー困った。繰り返してる。本当に御本尊が信じ切れて、南無妙法蓮華経を信じ切って。息子さんにもそのこと言うて。御自分自体が南無妙法蓮華経じゃないかと言うて聞かせて、やった時には仕事も。いまどき中学校の教職に就くなんて大したもんだよ。それは御自分が一つの現証を踏まえて、振り返ってみるんです。その時どんな信心をしたか。必ず、ものに引っ掛かってない信心をしているはずです。どんな困難なことも打開していく信心のありようはひとつです。引っ掛かってない。引っ掛かってない人は必ず道を開きます。引っ掛かって、こうだああだと理詰めでやってみたり、自分の感情が先走ってる人は全部失敗していきます。嘘じゃないぜ。この原理をもって、仕事の云々で人に忠告したことがある。今やってる仕事は満足か。それとも嫌で辞めるのか。嫌で辞めたときは仕事はないぞ。今の仕事がこんな楽しい仕事はないと言える仕事をやってみろ。その時言うて来い。その時に辞めていくのであれば辞めればいい。自分が仕事に不平をもってやってるときは道は開かんよ。辞めちゃいかんと注意した。それから分かったというわけで2年か3年間仕事をした。仕事が楽しうてたまらんなって。よその会社の社長が来た時に、これだけ出すからうちの会社に来てくれないかと言われた。断ったけども。。だったら辞めたら良かろう。道は開いたんだったら自分自体で辞めて、やったらよかろう。で、辞めた。辞めたときにはすでに自分でちゃんとやっていける状態になっとる。こんなもんなんだよ。これは自然の理なんですよ。物事っていうのは。人が死ぬるときは潮が引くとき。満ちたときと。私たち自体のありようでしょ。自分自体が満足なにもないけども、自分の一念心の中によくやれたなあという思い。よく踏ん張れた、良かったなーという思いを持っている人は道は開く。まだいかん、まだいかんと何もかもいかんとやってる人は道は開かん。成功してる人はみんなこのいき方だろう。これだけのことで、みんなに喜んでもろうてやっていかないかん、こればあ(これくらい)のことだけどという思いでやっていく人は、不思議なもんで次から次へと道を開かしていく。けども金の取り分が少ないとか、なんとかかんとかゴチャゴチャ理屈を言いながらやってる人は行き詰むでしまうろ。大聖人様の御文に出てくるろ。喜びのある者とない者の差でしょ。大聖人様は全部妙法蓮華経に例えて仰ってるはずですから。四条殿に対しても不平を言ったりどうこうしちゃいけませんよというのがあるろう。食べることにおいてでも、食べることができなくなったら身延の山に来い、いうて。わずかな一握りのもんであっても分けて食べよ、いうて。お互いが自分の一念心に、欲望の信心を捨ててしもうて、ぜんぶ妙法を信じ切れる自分に変わっていったらいい。全く違ってくる。ありようが。御信心のありようが分からんときにはね、大自然を見なさい。大自然を見たらね、山でも海でも川でもいいから。見てごらん。御信心のありようを全部語ってくれてるから。ひとっつも心配いらんから。ものは言ってないけども、全部御信心のありようを教えてくれてるから。例えば大きな岩が川の中に、でーんとある。信心とはああいうもんかな。でんと構えこんでしまったら、なんぼ激流でもなかなか流されるもんじゃない。ああいう信心をやってみようという気になってくる。桂浜へ行ってごらん。石ころ見てごらん。丸くなってるから。長い間に角が取れて丸くなってるから。ああ、こんなにならないかんなと思えるから。綺麗な石やねえじゃ話にならん。それは信心のない人の言うこと。御本尊様を拝んでる人やったら、石ころを見たならば、ああ素晴らしいなあ、こんなに丸くならないかんのだなあ。南無妙法蓮華経と題目をあげとったらこんなに丸くなっていくんだなあ。みんなから愛される人になっていくな、とこうなっていかんと。自然そのものが語ってるのよ。そのことは方便品(神力品?)に載ってるじゃんか。例えば山の中例えば配所の中におっても法華経は全部説いておるちうて。そしてまた自分なりに独り言でいいんだ、石ころ持って、南無妙法蓮華経は諸法実相、あらゆる姿があるけども全部妙法蓮華経といわれるがこういうことか。寄せてくる波も妙法蓮華経なりか。なーんて言っとったらいいのよ。そしたら諸天善神がそうだそうだ言う。風がぴゅーぴゅー鳴ってきたら。僕はそれをやってきてるんだ。それを。だから御信心は一人じゃできないけども、やはり語るものはある。そしてどこへ行っても御信心ができるというのはこういうことだ。みんな、できないできない言ってもできるよ。だから山行こうが海行こうが川行こうが、信心のありようを教えてくれてるんだよ。川行って、こう混ぜくってみなさい。きれいな水がいっぺんに汚(きた)のうなるから。自分の命が汚れたらこんなもんだ。けれども清らかなものが流されてくるとまたきれいなもんになるね。信心いうのはこういうもんだ。きれいなつもりでも縁に触れて、悪縁に触れて自分自体がワーッとなったときは命が濁ってる。けども、ああ、いかんかった。気がついて南無妙法蓮華経と題目あげて、いつのまにかまたきれいな流れに戻ってる。これが信心じゃないか。いつまでも繰り返しちゃいかんけどね。

 
 
 

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