信心は情熱をもって
- kisuke1965
- 2020年12月5日
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更新日:2021年1月11日
初代講頭座談会(2003年10月23日)
御信心は情熱をもってやってくださいよ。自分の心が自分の身体を引っ張っていくようじゃないとね。自分が情熱をもった時には心が身体を引っ張って行くんですよね。これは十二因縁という御書の中に出てきます。私たちの御信心は、心法の成仏が大事なんです。心法の成仏が色法の成仏になっていく。心法即色法。私たちの信心は心法の成仏を目指している。心法が成仏しなければ色法も成仏しませんよ。たとえば追善供養でも、自分が成道をとげておるかが問題。自分自体が成道をとげていないのにどうして追善供養ができるのか。自分がいつもため息をつかなければならないような境涯におりながら、死んだ人にお題目をあげているから成仏しております。そんなバカな話はない。涅槃経に説かれている。本当の追善供養は、まず第一に自分自身が成道をとげているかどうか。そして、亡くなった方の恩を感じておるのか。その人がやってきてくれたお陰で、いまの自分があるんだと。それがなければ追善供養でもなんでもない。その本人が気休めに口の中でモゾモゾ言ってるだけのこと。お数珠をシャッシャシャッシャやって題目をあげているだけのこと。
一言摂尽の題目とは、日蓮大聖人・日興上人・日目上人の志を継いでやっていこうとする、その一念心のもとであげる題目なの。簡単に言ったならば。その気持ちもなくして、自分のことばっかし考えながら題目をあげてもクソの役にも立たない。そんな信心とは違う。日蓮大聖人の信心は。オカルトじゃない。もし、皆さん方が妙法蓮華経がどこかに転がっておって、それを題目をあげることによって手元に引っ張ってきて、それが薬になって効くという、さもしい、あさましい根性で御本尊に向かっておるのなら、それは創価学会か顕正会へ行ったほうがまし。そうじゃない。妙法蓮華経自体が自分なんだ。
ここにはいらっしゃいませんが、質問が来ている。法華経とは一体何なのか、御経とは一体何なのか、南無妙法蓮華経とは一体何なのかと質問が来ている。そうすると大聖人は法華経とは自分自体じゃないか。よく僕が言うでしょう。座談会の時に。妙法蓮華経が自分自体なんですよ。あるいは南無妙法蓮華経が自分の心法なんだ。それを名づけて妙法蓮華経といっている。そして妙法蓮華経の不可思議なことは、長いものでもなくまん丸いものでもなく、色もついていない、取り出して見せることもできない。そういう不可思議極まりないものが心法なんだ。この心法とは大宇宙法界の生命なんだ。その生命そのものが私たちの物体、身体によってきている。そして色心不二となって私たちは活動している。けれども色法が壊れていく心法が去っていく、これを死という。こういうことが分かったうえで、日常の生活をやっていく人と、分からんとっていつまでも健康体だと思い込んで、この身体だったらまだ20年30年、50年大丈夫だと思って自信満々の方もいらっしゃるかもしれない。大きな錯覚だ。自分の業報が出てきたときには明日死ぬる。そういうことを計算しているか。誰もしていない。ただもう元気でいけることだけを考えている。愚かなことだ。私たちの人生というものは波の上の泡、太陽に照らされた草の上の露。あるいは風の前の燈火。こういう例えをもって儚(はかな)いということを言われている。
人生は煩悶懊悩を繰り返しながら、自分の生命のありよう一つによって苦しんでいる。業というものをこしらえながら、その業を感じて、その業因の強さによっては仏の所作も手のつけようがない。仏の大慈大悲も及ばない。はっきり経文に出ている。自分自体が徳を積むことを考えて邁進していく中で成道はとげられるけれども、逃げ腰になっては自分の業報を果たすことはできん。仏法とはそういうものなんですよね。いいですか。法華経は決して別にはない。皆さん方は法華経の体なんだ。生命そのものは妙法蓮華経なんだ。自分がやっていることは全部自分に返ってくる。わずかな小っちゃなことだと思っていても大きな結果になって出てくる。それによって自分が煩悶懊悩する時が来る。これを小因大果という。大果とはなにか。物質的なことじゃないですよ。生命ですよ。これは言われんけんどねと、こっちのほうでポソポソポソと言った。何でもないことだ。ところがそれを聞いた本人が、言った本人が煩悶懊悩しだす。こんなことを陰で言っております。打ち消しても打ち消しても、あの人はこんなことを言っております。だんだん問題が大きくなりだす。こういうふうなことで私たちは自分の人生を大きく狂わす。こういうことも私たちの信心の上ではいつも考えてもらわないかん。
情熱をもってね。信心にはホント。どうも皆さん冷めたような感じだ。素晴らしいということに目が覚めておってくれればいいけど。冷めてしまった状態じゃあ功徳をいただくといってもいただけない。いただくいただくといっても、功徳とは自分の行為ですよ。正しく行動したときにはそれなりのものが出てきます。道理を誤ってものを見て、物事に色をつけて見たときには失敗しますよ。正しくものを見なさいよ。あるがままに見るという訓練をしなさいよ。あるがままに見ることによってあるがままに手を打てれる。色をつけて見たときには違った手の打ち方をする。それで失敗をする。その失敗は自分が受けて立たなきゃいかん。業報ですから。業報は仏の所作では助けてくれない。南無妙法蓮華経と祈って助けてくださいといっても、何ともならないよ。業報は。自分が報いを受けていくんだから。業力の強さによっては自分たちを自殺に追い込んでいくときもあるろう。それを防ぐにはどうしたらいいか。正直にものを見て、南無妙法蓮華経と普段から自分を大事にしてみる。言葉においても使い方があろう。毎日毎日が真剣であれば情熱をもっているのと同じこと。日常の生活に三大秘法を溶け込んでしまいなさいよ。どこに行っても妙法蓮華経に溶け込んでいなければならない。これが日常生活のありよう。
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