他人(ひと)の命は変えられない
- kisuke1965
- 2023年6月3日
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初代講頭座談会 2003年6月23日
わずかの時間ですけどもね、御信心の話をさせていただくわけなんだけども。大聖人様がおっしゃってる言葉ですけども、要するに物質のみを追求する信心なのか。それとも色心不二の信心として成道を遂げようとする心構えの信心をするのか。大事なことです。例えば、お宅がね、舅さんとうまくいくかいかんか知らんけども、他人さんといくかいかんか。その時に他人の命というものは変えることできないよね。どうやっても。他人の命は変えることができないけども、自分の命のありようは変えることはできるわね。そしたら自分の命を変えるということによって相手の命に添うていく生き方を採っていくちう方法があるわね。そうしたならば多分にその人はあんたに添われることによって、その人もまた自分をあんたに添えていこうという生き方に変わっていかあね。これを仏法の上においては依正不二の原理として常に注意を与えておることよね。法華経をたもっていく上においては私たち自体が物質を追求するのか、それとも色心不二の信心、即ち命と体、物質。こういうものはひとつのもんですから。そういう点を心得て信心していくのか。いうことなんです。それでね、治病大小権実違目に「たとい法華経をもって行うとも験なし。経は勝れたれども、行者、僻見の者なる故なり」。こういうふうに注意されてる。だから祈ってる経は素晴らしい経文なの。お経はね。がしかし、その法をたもつ私たち自体が僻見。僻見というのは誤ったものの見方。あるいは誤った手段、方法を講じていく。そういうふうなことをやった時には、いかほどに優れたお経だと言っても現象(現証)としてはでてこないわね。験(しるし)というのは現証ですから。まず一番大事なことは成道が遂げれんわね。なんぼ、この法華経をたもっても。刹那成道という成道が遂げれんわね。南無妙法蓮華経と見事題目はあげるけども、毎日不安をもってやっておるということになるわね。不安ということは自分自体が確固たるものがないですから。いつもよろめいてるわけだから。そうするとそれによって自分自体がなにがどうっちうことも、経験もありませんから。自分の将来ばっかしを心配するということが正直なとこなんですから。もうひとつは私たちの命というものはいかほどに力んでも外っ側、すなわち環境のありようによっては。たえず環境によって紛動されてますから。環境によって紛動されて、それによって自分たち自体が幸せで行くのか不幸せで行くのか。あるいはまたその一日(いちじつ)の楽しいとか苦しいとか暑いとか寒いとかいろんなことを言ってるわけですから。そうすると環境に絶えず自分自体の命が圧し拉がれ(おしひしがれ)ておると。いうふうな状態であったならば、およそその本人には成道というものは言葉はあっても、どんなものが成道なのか分かりっこないでしょうね。多分に。僕もね、ずーっと先週くらいから毎晩のようにね、夕べも二人、遅うまで信心指導しましたけど。一貫して言えることがある。それは成道ということ。言葉では分かってるんだけども。どういうふうにやったなれば自分が幸せになっていけれるか。全然分かっていない。御信心のありようが。ただ拝みさえしとったらええという、こういう錯覚を起こしている。あるいは入られて間のない方ですけども、この方は、世話してくれた方が言うには、ちょっとでも疑ごうたらいかん。ということで疑問は持ってるんだけども、疑問そのものは疑いだから疑ったら仏さまから罰を受けるから。そういうふうな疑いを持ったらいかんと言われてきた。聞きたいけどもそれは疑いがあるから。そんなこと講頭のとこ行ったら、ホント突き飛ばされるちうて、脅かされちょったに変わらんけどね。ほんとワシ聞いてびっくりして、そんなこと言わんよ、言うたんですけども。そういうことで訪ねて来られた。いろいろ話をしておりますとね、そういうふうなことで疑問を持ちながらもどうしても言葉によう出さなかったと。その疑問は一体何なのかと。なんで病気が治るのかということでね。それ病気治るんです。実は。不思議でもなんでもないです。草木成仏口決の御書にちゃんと書かれてんですよ。文書は病気治りますとは出てませんどもね。(意として)病気治るんだとちゃんと出てるんですよ。それはその本人が成道を遂げる話なんです。成道さえ遂げたならば、物質ですから、草木成仏ちうのは、この体そのものが物質化されて。そこに成仏するという一つのありよう。それを採っていく。それを御信心の上においてピシッと通したときには病気は間違いなく治る。もちろん治らん病気もあるでしょうね。たとえば草木においても枝が枯れてしまって虫が喰ってると。無くなってしまってると。いうようなものは治らんでしょうけどね。大聖人様は治らん病気はないと言われてるようなもんですから。それは草木成仏口決の中に出てくる。だから夕べの話ですけども、自分(初代講頭)のこと見よったら、こういう病気だと聞きましたが本当ですかと質問された。そうは見えませんけども、ちうて。その通りだって。ちょうど〇〇さんが用事があって降りて来とって、それを聞いて、医者からハッキリこうこうでこうで、言うて。口をあんぐり開けて、考えがつかん。そう言うとった。そこまでなるんです。ところがやはり仏法の上においては成仏するということが大事なことだ。それが全部につながってきてる。だから私たちのこの体そのものも物質ですから。自分の生命そのものもありますから。そこに色心不二という、そういう状態をもって南無妙法蓮華経と題目をあげて成道を自分が遂げていく。遂げるところにそういう結果が出てきている。説明が下手ですけども。ですからこういう会合を通じて言えれることは、祈る経は最大事の経なの。けども験が出てこないというならばたもってるお互いに責任がある。どこかに否(いな)なものがある。その歪んだ(いがんだ)ものを発見せないかん。でなかったらせっかくこんな素晴らしい題目をあげながら験がすぐ出てきませんじゃ話にならん。そういうことで難しく考えんように。質問は質問。疑問は疑問。なんぼでも疑問は持ってもろうたらええ。そして納得できたら疑いは持たんように。納得できるまでは疑問ずーっと持っとったらええ。死ぬるまで納得できなかったら死ぬるまで疑問を持っとたらええ。そして死ぬるがけに、嗚呼やっと分かった。自分の信心は間違(まちご)うとった。ちうたならば今度来世生まれてくる時には家がひっくり返っちゅうとこに生まれてくるちう話だ。でんぐり返っちうとこに出てきて、南無妙法蓮華経でなかったら幸せになれないよっちうて教えられて信心することになると思います。こういう話聞いたことがある。昔のことだけどね。どこまで本当か知らんよ。けどもそういうふうなことをフナキさんという方に聞いたことがある。昭和50何年かな、3、4年頃の話だけど。まあお互いにそんなことがなかったらと思いますけどもね。そういうことで遠慮なく発言してもらいたい。前置きはこのくらい。
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