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仏法には形がない

  • kisuke1965
  • 2021年1月2日
  • 読了時間: 5分

更新日:2021年5月17日

初代講頭座談会2002年1月24日


・仏法(信心)には形がない

御信心は形がない。ところが私たちは物質世界に生きている。でも肝心要のものは命なの。目に見えない。私たちの命の働きが物質世界に影響を与えている。物質物質と追いかけているのは流転している状態。自分の生命を行き詰まらせてしまうと、いくら目の前にいいものがあっても、いずれ自分自体をダメにしてしまう。これが怖い。命の働きというものを教えているのが日蓮大聖人の仏法なの。これが己心の法門のありよう。流転をしないとは、戒壇建立なの。これは己心に建てるもの。建物を建てるという話ではない。

この信心で大事なのは、自分の一念心がどうなっているのか。なにかあったときにすぐ御本尊様のことを頭に置いているのか、絶えず御法門を聴聞しようと心がけているか。


・宿命の打開

行き詰まるたびに、やれやり方が悪かったと言ってるようでは宿命の打開はできない。いつまでも埒が明かない。自分の命の問題。命の問題が外に出ている。その人の命の癖というものがあるから、宿命の打開ができていないから何回でも同じことを繰り返す。最後は行き詰まってしまう。これが宿命のままに流されていく人。

ところが本当に御本尊様を信じている人は宿命の打開をいつの間にかやっているから、同じようなことが起きてきても初めよりはだんだんだんだん苦しんでいく度合いが少なくなっていく。そのうち同じようなことが起きてきても去っていく。やがてサーっと解決していく。これが宿命の打開だ。

命に宿っているものが宿命。何年たっても同じようなことを繰り返す。そういう宿命を持っている。いつまでたっても埒が明かない。御本尊様を信じている人は、その癖が出かかってくると、修行とはそんなもんじゃないんだ。行住坐臥に修行なんだ。違うんだ違うんだと、ジワーっと収まってくる。それが宿命の打開。無くなるもんじゃない。けども寛尊は無くなると仰っている。真面目に唱題修行したときは一遍の題目で打開はしておると。そうだろうな。真面目に信心している人は。いかんいかんいかん、御本尊様云々と。自分で押さえつけて、歯を食いしばって流れかかっていても押さえつけていくだろうね。ところが弱い人はそうはいきませんから。十年たっても二十年たっても同じことを繰り返す。五十年くらいたってやっとこれで宿命の打開ができたかなあという状態になるのかな。真面目に信心している人は得していくよな。

物質世界だから命の働きが変わってきたら何もかも変わってくるんじゃないの。自分が変わってきたらお付き合いする人が変わってくるんじゃないの。不思議に。寛尊の御指南にも自分を知りたかったらどんな人と付き合っているか見てみよと。世間でもどんな人と付き合っているかを調べれば、その人のことが分かるのと違うの。付き合ってる人によって、その人の価値が分かる。十の果報を持っている人は、付き合ってる相手は十しかないんだよ。百の人とは付き合えないんだよ。それも頭に入れとかなきゃいかんで。


・どうしたら講頭のような強情な信心に立てるでしょうか

そのままでええやんか。なっていくよ。ああでもないこうでもないとごちゃごちゃ言いながら年数が経っていく。そのうちに言っていることが恥ずかしくなってきだす。自分自体が苦労しているから、その苦労そのものが御信心になっていく。御信心は苦労がないと分からない。自分自体が苦労して初めて御信心が分かりだす。苦労しているから御本尊の有難味がよく分かる。御本尊の有難味が分かるのは本人の苦労なの。世間でも子供には買うてでも苦労を教えろという。立派な子にしようと蝶よ花よと育ててもろくなものにならない。

ともかく退転せんこと。しがみつくこと。危ないと思ったら誰でもいいから信心の話を聞くこと。信心は魔性との戦いなの。御信心がしんどい姿を見せ始めると行き詰まりが来ている。さー来た、となったら御本尊様に向かう。その時は口を閉じる。大人しい姿になる。穏やかな姿を見せる。世間とは逆なの。

功徳をいただいた人でも退転して十年二十年たったらどんな姿になるか見ているからね。何人も見てるしね。ともかく恐ろしいと思うからね。その本人の命の働きで藪をつついて蛇を出しているんじゃないかね。人の悪口雑言(あっこうぞうごん)言った人でずーっと栄えた人はいないからね。どんな愚かな人でも御本尊様御本尊様でやってる人はなんとなく栄えて行ってるからね。大聖人様の仏法とは嘘じゃないからね。真実になって出ている。何年かかろうと幸せになるという信念をもって信心していってください。どんなに今、困っていても、真面目に信心を貫いた人は衣食住に困りませんよと言われている。


・命の癖はだんだんと良くなりますか

良くなるね。自分自体が治さなきゃいかんと思っても治るもんじゃないんだよ。これは。でもね南無妙法蓮華経と題目を上げて、自分の修行と心得ていくといつの間にか変わっていくんだよ。だから相が柔らかくなって、物腰が柔らかくなって相手の気持ちも汲める自分に変わってくる。目まで違ってくるからね。ところが悪縁に触れて信心をやめたとたんに悪相になるわけだ。これが怖いんだ。がっくり相が変わるから。信心やめてみ。目だけ光りだすから。自分だけで何かをやっているような錯覚を起こす。

 
 
 

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